河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

725‐ ゲルギエフ ロンドン交響楽団 観念のプロコフィエフ・サイクル 2008.12.3

2008-12-04 19:57:42 | コンサート

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ゲルギエフ&ロンドン交響楽団という最高の組み合わせで来日したのに、やる曲が、プロコフィエフ・サイクル(プロコフィエフ・チクルス)ときたものだから、聴くほうもきてる。。

天皇陛下ご臨席の122日公演もニュース映像で見る限りガラガラでお寒い感じだったが、河童は最初からあてこんで(ひねくれて)、一番人のはいらなそうな日を事前に選んでいた。

 

2008123() 7:00pm サントリーホール


《オール・プロコフィエフ・プログラム》

交響曲第2

チェロ協奏曲第2

 チェロ、タチアナ・ヴァシリエヴァ

交響曲第7

(アンコール)
ロメオとジュリエット』組曲第1op.64bisから 「タイボルトの死」


 

ワレリー・ゲルギエフ 指揮  ロンドン交響楽団

 

なんというか、早い話、アンコール以外生演奏に接するのはもしかして初めてかもしれない。

プロコフィエフの交響曲、協奏曲、特に交響曲は1番のクラシカル・シンフォニーと5番以外は極めて不人気。聴いても栄養にもなにもならない感じだが、ゲルギエフは完全にはまっているらしい。本人に言わすと、まだ奥が深いとのこと。たしかにオペラなどは全部振りつくしているしその傾倒ぶりには目を瞠るものがあるのも事実。

協奏曲はそれなりにたまに聴いている。ピアノ協奏曲はポピュラーな第3番よりわけのわからない第2番の方が結果的に魅力的だったりする。今日はチェロ協奏曲第2番ということで完全に初ものだ。。

客の入りは思ったよりよくだいたい67割程度。65パーセント満席、ワインヤードは後方と2階センター前列が埋まっているぐらいで、横、奥ともに空(カラ)。。

人気のあるゲルギエフであるがもっと空席だらけのオペラを上野で体験したことがある。そのときは、一番高い席と一番安い席が埋め尽くされ、それ以外の席は空だった。今日も現象としては同じ。つまるところ日本人(聴衆のことではなくチケットを売る側)の発想としては同じ。

曲の並びが頭でっかちになっているが、有名度からいってしかたのないところか。かといって第7番で終わるとは思えない。アンコールでロメジュリあたりをやってぶっ飛ばしてくれないと、聴いているほうも消化不良になるのは確実だし。。

長い演奏会だった。7時からはじまって終わったのが940分。

前半に長いのを二つ入れているので、休憩後の後半開始が850分という異例のもの。普通この時間だとN響定期あたりだと演奏会そのものが終わっていて帰路につく頃だ。

タイミングとしては、前半の交響曲第2番が37分。協奏曲が38分。

人の入りが悪く開始が710分ぐらいであったので、また協奏曲の段取りをしたりしないといけないので、結局前半終了が8時半。

20分の休憩後、第7番が30分。それにアンコール。跳ねたのが940分。

まずロンドン交響楽団のサウンドであるが、デイヴィット・パイヤットの細みで切れ味鋭いホルン・サウンドのことに言及するに及ばずこのオーケストラのやや硬めで明快かつクリアな音色は、一耳瞭然。

その昔、チェリビダッケがこのオーケストラを多いに振っていたことがあり同組み合わせで日本にも来たことがあるが、あのコンビネーションはやはりなにかの間違いであったのかもしれない。あのときも空席が多かったなぁ。


それで、

このオーケストラには黒人はいないと思うのだが、それはそれとして、団員がみんな自由な雰囲気で束縛されずに音楽を楽しんでいる姿が、どうしても英国の気品とオーバーラップし、ハイグレイドな自由気質が自然に醸し出されており、悲愴感が全くなく、重くならない音が自由に飛び回る。

腕達者な連中だらけでトップクラスのオーケストラ、気さくな空気は自由な雰囲気をホールに伝播する。非常に好ましい。こうゆうオケがやるときはやるんだ。


交響曲第2番は、プロコフィエフの成長プロセスの脳みそを覗いているような感じで、第1番クラシカルのあとの第2番とはとても思えない。脳内実験工房の披瀝のようなものだ。これは必要な作業に違いなかったのだろうが開示する必要があったのだろうか。

2楽章形式で、ソナタ形式の第1楽章、変奏曲+第1幕の回想で終わる第2楽章。

これを当日のプログラム・ノートではベートーヴェンのピアノソナタ第32番の作品111と比して書いてあるが、これは大げさ、うがちすぎ、美化しすぎ。

たしかに形式はそうなのかもしれないが、その前に音楽がこなれておらず未熟すぎる。ここらあたりから論じないといけないと思う。プロコフィエフ特有の粒立ちのいい立ち上がりのいいリズムが曲想全般を支配するが、なにもかもが中途半端で(成長プロセスであるからその時点では最善)、なにをどのように表現したいのかよくわからない。この2楽章形式だって、ベートーヴェンが形式を破壊し、あらたに創造したプロセスの結果であるのに対し、プロコフィエフの2番を同じ土俵で論じても話にならないのではないか。

プロコフィエフの交響曲第2番は素材があるだけである。無防備、無邪気に羅列された素材が荒唐無稽に動き回る。ここから何をみつければよいのか。

たしかに、この素材だけで2楽章合わせ37分も何故必要だったのかという興味ある疑問もないわけではない。響きの世界に埋没するというてもある。それはこちらとしても得意だが、曲の形式感を問うのはあまりに早すぎる。。


前半2曲目はチェロ協奏曲第2番、別名、交響的協奏曲。

これはいわゆるコンツェルトで3楽章形式。第2楽章がかなり膨らんだ音楽であるが1曲目のあとだと比較的救われる。

チェロが高難度技を要求される曲で、また恐ろしいことに、プロコフィエフはチェロ独奏に口を出さない、というか音を出さない。つまりチェロの独奏部分は非常に良く聴こえるように出来ている。いいところから悪いところまで全部聴こえる。昔の協奏曲みたいに中声部域の楽器の協奏曲にありがちな、「埋もれてしまう」ようなところがない曲だ。プロコフィエフも難儀だなぁ。。


ロストロを想定して書いているので彼しか弾けないような難曲だと思われる。特に自由に膨らんだ第2楽章は、かなり精根尽き果てるような荒技が多そうだが、タチアナさんは平然と通り過ぎる。それだけでなく、プロコフィエフらしからぬウェットな表情まで魅せてくれる音楽はそんなに魅力的でない音楽であることを忘れさせてくれる。

オーケストラの粒立ちの良さはこの作曲家の特徴を強調させているし、オーケストラの音がソロを邪魔しないオタマジャクシの並びには感心するしかないのだが、オーケストラの対向配置もなにかしらいい作用があるのかもしれない。

左奥に陣取ったコントラバスはどよーんとした音ではなくクリアなサウンド。その前方に第1ヴァイオリンが位置するが、このバランス関係が音色の構築をさらに明確にしているようだ。

そういう意味では交響曲第2番の響きも、もしかすると従来の演奏と響きが少し異なっていたのかもしれない。例えばコントラバスとチューバが旋律をあわせるフレーズ、向かって左奥のコントラバス群と右に位置したチューバは15メートルぐらいもっと?離れているかもしれないが、個別に出した音が離れた位置で微妙に融和していく様はオーケストラ曲を聴く醍醐味である。

響きの点でプロコフィエフに改善を試みているゲルギエフ。そう言う意味では全般にわたりやはりアクティヴな姿勢でこちらも聴かなければプロコフィエフも浮かばれない。。

タチアナさんのチェロには大拍手。素晴らしい、すごい。

850分頃からはじまった交響曲第7番。プロコフィエフの最後の曲。

ここでもプログラム・ノートには変なことが書いてある。遺作で悪いコンディションのなかで書かれたものであり懐古に走るのも多少我慢してくれ、とまでは書いてないが、いたしかたない部分もあるのだと。

歴史的前後関係を思索せず、垂直的にこの曲を聴けば、やはり、その価値はあるべき所に納まっているのではないか。それこそ、いたしかたがない。

この4楽章形式の副題は青春。これ以上ミスマッチなタイトルはないだろう。

若者に捧げる曲としながら、平易簡素さよりも、音楽の持つしなやかさに耳がいってしまう。前半の第2番の交響曲とは比べ物にならない表現力である。しかし、若者向け、懐古趣味、それが何故ソナタ形式の構築物にならなければいけないのか。それは交響曲だからだ。と言われてしまいそうだが、つまり破壊的創造がなかったわけであるが、表現がしなやかになったのに今度は形式を求め、うまくいかなかったチグハグな音楽という印象が強い。

 

プロコフィエフの音楽ではバレエ音楽がいい。副次的な要素の強い音楽ではあるのだが、よく流れうたう曲想が連続し、飽きない。

今回の来日のゲルギエフのプログラムにも「ロメオとジュリエット」がある。いい演奏が展開されることだろう。今日のアンコールはロメジュリからの断片であるが、鋭角的なロンドン交響楽団のサウンドにマッチした表現であり、短いながら全曲の輪郭が想像できるようなすごさだった。

ゲルギエフはプログラムにもインタビューが載っているが、かなりプロコフィエフにはまっているのだろう。まだまだ奥が深いことを強調している。しかし、今日の空席を見てもわかるように、この演奏会に来なければ話にならないわけで、それには底辺を広げ基盤を確立することが必要なわけであるが、演奏会ではなくその前にやることがある。交響曲全集を作っているのでそれはいいことだ。ただ、それだけではなかなか難しそうだ。

逆にこのように他国で交響曲を全部演奏してしまうということがのちにエポックメイク的なメルクマールになるかもしれない。国内のオケがこれをお手本にすればある程度の広がりを持つことになるかもしれない。


この日は素晴らしい腕のオーケストラによる演奏であったが、企画が企画だけに、今一つ、とはいっても自分で選択した曲の演奏会だったのだから、自業自得?

プロコフィエフの交響曲の流れ、推移はある程度理解できたと思う。

でもはまりそう。。

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