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最近の演奏会より。2009-2010シーズン。
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2009年10月24日(土)2:00pm
サントリー・ホール
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チャイコフスキー 幻想的序曲「ハムレット」
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モーツァルト ピアノ協奏曲第27番
ピアノ、田村響
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プロコフィエフ 交響曲第3番
~歌劇≪炎の天使≫による
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(アンコール)
プロコフィエフ シンデレラより
シンデレラのワルツ
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アレクサンドル・ラザレフ 指揮
日本フィルハーモニー交響楽団
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どうしていつもこのようになるのだろう。
ロシア人が棒を振ると日本のオケさえロシアの響きとなる。。
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音の横幅が広がり、ブラスは鳴り切り、弦はゴシゴシと極限のテヌート、コントラバスはうなりをたて、そして全体の音圧が激しく胸が苦しくなるほど圧倒的。一見大雑把に見えて要所の締めは見事。
扇風機のスヴェトラーノフ、ひらひらチョップのゲルギエフ、おどけのロジェストヴェンスキー、ラザレフは客席を見ながら棒を振ったり、この人たち日本のオケを振るとだいたい一様に普段聴いたこともないようなサウンドに様変わりさせてしまう。
ロシア人はオーケストラのサウンドというものはこうあるべきだというものをもっているのかもしれない。そして外国に出張っていっても同じように表現するべきだと思っているのだろう。そのような信念がなければいつもこんな音でない。
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プロコフィエフの3番は、日本のウサギ小屋ではその音響を再現させるには無理がある。
昨年の12月にゲルギエフとロンドン響の組み合わせで2番を聴いたが、あのような成長のプロセスを見せられているようなレベルではもはやなく、このとんでも3番、結局有名な5番の方向に向かうのか、それとも爆な世界に行くのかその分水嶺のようなきわどい作品だったのだ。
圧倒的な音圧でバスドラ、ティンパニ、ブラスが地響きをたてる。一瞬5番のシンプルで清らかなハーモニーが聴かれるところもあるが、すぐに吹き飛んでしまうすさまじさが全体を覆っている。第4楽章の終結部ではそれまでうなっていた不協和音はついにはトーン・クラスターのようになり、鳴っていたのかそうでなかったのか、行きつくところまで行って終わる。その後の交響曲の展開をこの方向で展開していけば、今聴ける5番とはまったく異なる世界に到達していたと思う。残念な気がしないでもないが、5番は頂点だったかもしれないが3番は究極の選択肢的な曲と言うべきものだったのだ。
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演奏会の30分ほど前に、団員による曲、演奏者の紹介がある。
ハムレットとプロコフィエフの3番は、このオーケストラにとって初めての曲のようで、いかに日常的でない曲であるかわかるというものだが、だからと言って駄作というわけではない。理解者がいなかったのだ。振るほうに。。
曲を知っている指揮者がいなければ日フィルからこの日のような音は決して出ない。オリジナルなロシアの指揮者がまさに、曲と演奏方法、解釈を移植しに来た、というにふさわしい。昔、ギュンター・ヴァントがN響にブルックナーの演奏方法を移植しに来たのと同じだ。
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プロコフィエフの交響曲第3番というのは副題が示している通り、歌劇≪炎の天使≫を素材にしている。素材をソナタ形式の第1主題、第2主題、三部形式、スケルツォ、トリオにあてはめているので多少無理がある。近接する主題に素材の有機的なつながりはあまりあるとはいえない。オペラの広がりは大きなものであり、断片のつまみ食い的な、主題への貼り付けでその主題構成を行ってしまうようなところがあり、交響的な連関は薄いというかあまりそのような形式的な聴き方はどうかと思う。ただし、組曲風な感じは全くない。やっぱり交響曲の形式で聴くと心和らぐ部分もあるのも事実。かなり爆ではあるが。。
冒頭の響きからウサギ小屋では聴くのを控えたほうがいいように思うが、そのような連続ななか、第3楽章のスケルツォ、トリオのあとの回帰、ここ回帰なのかどうか。完全に変。ユニークな響きが2,3分鳴り響き、終結するような雰囲気もないまま宙ぶらりん状態にさせてくれたまま終わり第4楽章にはいる。ここまでくると曲の大きさがオペラのことを忘れさせてくれる。最終楽章のクラスターの響きの予兆はこの回帰段階ですでに形成されているのではないのか。
第4楽章を冷静にソナタ形式で聴き終えるのは困難だが、音楽の聴き方として方向感を見定めながら聴くことは出来る。聴きようによっては、モザイク的手法のような感じがなくもない。そのつながりは繰り返しではなくチェーンであり、新たなリズムとハーモニーの世界が生成され続ける。
オペラ≪炎の天使≫がいかに異様かあらためて認識できるというものだが、オペラの流布の為ではなく難解さが上積みされてしまっただけのようだ。傑作の生まれるひとつの方向性が示唆されていて興味深い。
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ということで、前半は完全な前座モードになってしまったわけなのだが、味わい深いものではあった。
ハムレットはラザレフ共感の棒以外の何物でもない。4列目中央の席で音圧につぶされてしまいそうな席に座っていたのだが、たまにこちらのほうをちらちら見ながら棒を振る、といっても棒は持っていないのだが、その姿がかなりユニークだ。客席のほうまで首を曲げる指揮者は結構いるが、ラザレフの振りむき技は意識されているものだけに、思わず、目くばせをしてあげたくなる。2,3回目が合った。
日フィルは縦の線が今一つだが、ズシーンとあわせにくるラザレフの棒で、あとでオクタヴィアのCDにどんな感じで収録されているのか興味があるところだ。ラザレフはデリカシーに富んだ解釈をするようで、ハムレットの理解が必須なのかもしれないなぁ。
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1986年生まれの田村響という音楽的な名前の若いピアニストがモーツァルトの27番を弾いた。あまり演奏会、リサイタルが多いと練習する時間があるのかどうか心配になったりするものだが、そこらへん彼の場合十分な練習を積んでいるように見受けられる。直感的には後に棒振りに転向するような気配がある。
かなりスローなテンポで落ち着いた演奏で、精神にも余裕が感じられる。ダイナミックな変化、音楽のしゃくりあげるような歌があるにはあるがちょっと取ってつけたようなところがあり響きの変化にもう少し自然さが欲しい。それがないところが若さの表現と言えるのかもしれない。着実で誠実な運びの音楽造りが好ましい。
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上記のように前半はハムレットとモーツァルトの27番のプログラム・ビルディングであり、ちょっと違和感があるが、それは聴き手の問題なのかもしれない。ハムレットの柔らかい表現が次のモーツァルトにうまくつながったようだ。
後半のプロコフィエフの3番は35分ほどなので、前半と長さがアンバランスなのだが、前述したようなものすごい音楽であるため時間的経過は別世界のことになってしまった。
最後にアンコールがあった。ラザレフが振る前に、一度、二度、三度、と客席をちらちらみて、それからワルツを振った。このシンデレラがまたやたらと迫力のあるワルツで、大変に感服。ぶ厚いサウンドのすばらしい音の流れがグングンと鳴り切り、手ごたえのある音楽になっていた。
おわり