河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

バーンスタインの3番づくし

2006-07-11 00:36:17 | 音楽

1_28








ロイ・ハリス、ウィリアム・シューマン、アーロン・コープランドの3人の作曲家の交響曲第3番を、ある日のバーンスタインはプログラムにのせた。そのとき河童は見た。忘れがたいサウンドを。これは既にライブでCDになっている。

この3人というよりもバーンスタインも含め、この4人、と言った方がしっくりする。年代的には少しずつ異なるもののかつてのアメリカ音楽実験工房的、またエネルギッシュな同時代の作曲家仲間として、未来の音楽を作ってきた。別の意味でも関係が深い。

バーンスタインの本には彼らの名前がいろいろと出てくる。

 

 

ロイ・ハリス

1898.2.12オクラホマ・リンカン郡生まれ

1979.10.1カリフォルニア・サンタモニカ没

 

 

ウィリアム・シューマン

1910.8.4ニューヨーク生まれ

1992.2.15ニューヨーク没

 

 

アーロン・コープランド

1900.11.14ブルックリン生まれ

1990.12.2ニューヨーク没

 

 

レナード・バーンスタイン

1918.8.25マサチューセッツ生まれ

1990.10.14ニューヨーク没

 

 

河童はロイ・ハリス以外は現物確認をしている。このニューヨーク没の3人は事あるごとに現れていて身近な存在。河童が見たライブの模様は?

1985.12.5,6,7,10 Avery Fisher Hall

ROY HARRIS   Symphony No.3               20min

WILLIAM SCHUMAN   Symphony No.3       32min

AARON COPLAND   Symphony No.3          44min

Leonard Bernstein, Conductor

New York Philharmonic

 

以下は、そのときの河童の歯も浮く超美化感想。

 

 

壮絶な演奏であった。特に最後のコープランドの交響曲第3番は地球上には形容するものがないようなすさまじい演奏であった。あのブラス・セクションのものすごさは、ほとんど信じがたく特に例のファンファーレで始まる第4楽章は驚天動地。これは完璧にアメリカ人によるアメリカの音楽であった。良し悪しの判断をこの音楽は越えているし、また、演奏の良悪を問うてみるならば、これまた最高の名演であったように思われるわけであるから、全てのものを頭ごなしにするというのはよくない。バーンスタインはこの曲を我々知らない連中、特に外国人である我々にもよくわかるように演奏してくれたと思う。

概して、アメリカの音楽はスローテンポつまり緩徐楽章がつまらなく、音楽が希薄であると思われるのだが、今日のコープランドの曲はそんなこともなく、第1楽章が相当充実していて、このように充実した音楽ならばたくさんの指揮者がたくさんの解釈を示してくれそうなすばらしい音楽である。バーンスタインは大家そして余裕の音楽、音楽の枠組みを大きく作っていく。ブラス・セクションは最初から最後まで壮絶を極めつくし、これはうますぎるなどとわかった批評をする前に、誰か他にこのような光り輝く音を出せるか、よく考えてみるべきだ。これはまさにコープランドが求めていた音楽なのだから。この定期のシリーズもライブ・レコーディングされているので、あとでレコードがでたら是非買わなければならない。

 ハリスの作品も、シューマンの作品も上記の感想に類似している。ハリスの交響曲第3番はかなりわかりやすく、おもしろく興味の持てる音楽である。シューマンの交響曲第3番はPart.Passacaglia and Fugue  Part .Cholare and Toccataが示すように明晰な音楽である。メロディはあまり親しみやすいものではないかもしれないが、構成感、形式感はしっかりしており(古典的)、その意味においては理解しやすい。この両曲においてもニューヨーク・フィルのブラス・セクションのものすごさには開いた口がふさがらない。NHKso.がこのようにブラス・セクションに力があったならもっと素晴らしいオーケストラになるのに。

 今日は奇しくもというか故意といおうか、交響曲第3番シリーズとなったが、アメリカ作曲家も、このくらいの数字になるとそれなりに安定した作品を書いたということになるのであろう。アメリカで、アメリカのオーケストラがアメリカ人作曲家の曲を演奏するというのは、日本で日本のオーケストラが日本人作曲家の曲を演奏するのとは全く異なる。曲の判断は別にしても、アメリカで自国の曲をやれるということに対する違和感は、アメリカの場合全く無い。これはオーケストラの長い歴史の産物。我々はここに西洋音楽と同じレベルの議論をすることができるのだ。ところが例えば日本だと、なぜ尺八協奏曲みたいなものが必要なのか、といった、そこらへんから始めなければならない。この違いはかなり大きいと言わざるを得ない。まして、このようにアメリカ作曲家のみの曲だけで、一晩のコンサートを持って、それなりに、いやかなりの感動を伴うことをできると言うのは、これは歴史と伝統。

ウィリアム・シューマンが出てきた。ことし75才ということだが、まだ、かくしゃくとしていて、またバーンスタインの演奏に、いたく感動していたのが印象的であった。

 

 

ロイ・ハリス 断片

1898.2.12オクラホマ・リンカン郡生まれ 1979.10.1カリフォルニア・サンタモニカ没

交響曲第3

ロイ・ハリスの交響曲第3番が1939年に初めて演奏されたとき、ボストン交響楽団のセルゲイ・クーセビツキーをはじめとする音楽家は、この曲はアメリカ合衆国で作られた最も重要な交響曲作品である、と感じた。その交響曲はハリスの西部アメリカの背景を反映していると広く認められていた。大都会やティン・パン・アレイのアメリカ主義ではなく、またアメリカのジャズのエンターテインメントと結びついていたというよりも、西部の大草原や山の広大な景色、強靭でもっと基本的なエモーション、のアメリカ主義である。ロイ・ハリスの第3交響曲をメジャーなアメリカ音楽だと認めた最初の批評はハーバードに在学していたレナード・バーンスタインであった。バーンスタインは、セルゲイ・クーセビツキーがボストン交響楽団を指揮して19392月に初演したこの曲を論評した。バーンスタインは雑誌モダン・ミュージックのコラムにこう書いてある。あらゆる感覚が成熟している、美しいプロポーション、エロティック、節度があり、変化をもたらす、 時間はバーンスタインの判断を裏付けた。

ハリスは、スコットランド・アイルランドの両親のもと、オクラホマのリンカン郡にある丸太小屋で生まれた。両親は牛と銃とわずかな食料を牛車に積んでオクラホマに来た。新たに来た人たちは、木を切り、自分たちの小屋を建て、その所有権を主張するといった時代だった。家族でカリフォルニアに引っ越したのはハリスが5才のときだった。そこで教育を受け、カリフォルニア大学に通い、音楽を学び最初の作品を書いた。

以下略。

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シカゴ 初上陸

2006-07-10 00:07:10 | 音楽

1_23 この年、チェリビダッケが初来日し、真の演技性を見せてくれた。今なお忘れがたいことがたくさんあるが、今日はその話ではない。同年19776月シカゴ交響楽団がゲオルグ・ショルティとともに日本初公演をおこなった。サラリーマンの僕はもちろん仕事より音楽の方が優先度が高いわけだから帰りのタイムカードは、協力体制がしかれた同期にお願いした。チケットは実は当日券である。窓口にいったら何かの拍子で招待席みたいなところをゲットすることが出来た。会社を早めに抜け駆けした甲斐があった。隣に30年前の小沢征爾らしき人物がいたのをはじめ、日本の当時の著名な音楽評論家、音楽関係者が山のように来ていた。ことのほか眺めのよい席で、聴く方のやるき度も臨戦態勢十分。

記憶が鮮明なのはマーラーの5番。前半はジュピターだったが内容は覚えていない。強烈なマーラーであった。日本で初めてみるシカゴの超一流プレーヤーによるマーラー体験。アドルフと思しきトランペット・ソロに導かれ、輝かしいフル全奏が上野のホールを揺るがしたとき天井は蓋が取れ、聴衆は座席から全員10センチ浮いた。なんという強大で圧倒的なサウンド。全員ぶちのめされた。とにかく最初から最後まで、音楽がドライな感じでピアノとフォルテを蛇腹のように展開させる。第2楽章後半のファンファーレではアドルフ率いるそのセクションの末席には、今はニューヨーク・フィルの主席を占めているフィリップがいたはずだ。なんという輝かしいファンファーレ。圧倒的な第1,2楽章が夢のように終わり長大な次の楽章に突入した。デイルはピクリとも動かないで、生きたセメント銅像、みたいな感じで第3楽章のホルンパートを涼しげにふいている。キングコングの毛で出来ていそうな強靭なコントラバスが青白い炎をビーンと響かせているアダージョ楽章でさえショルティのびくつく、どつく指揮棒は変わらない。あの棒から何故あのような音楽が流れ出るのか。亡くなる前にシカゴのオーケストラ・ホールでおこなった演奏家形式のマイスタージンガー全曲は静かで柔らかで威厳と確信に満ちていた。踏みしめる人生の夕暮れ。昔のオペラ劇場でのいろいろな出来事、たゆまぬ努力、そのようなことの集積がこのマイスタージンガーにはある。その演奏でもどついていたんだろうな。

それで、最終楽章に突入した。この奇妙なフーガは果てしも無く音量増量大盛り特盛り状態になり、最後の弦によるゴソゴソしたもつれを最後のブラスで締めくくるわけだが、このシカゴにもつれは最初から無い。ハイな技術がシナジー効果を生み、こちらの楽器の技術のエコーがあちらの楽器のエコーとエコー同士さえも共鳴しあいさらなるエコーを生む。真の技術を生かしコントロールできたのはライナーとショルティだけだったのであろう。唖然茫然。黒く澄みきった異様な音楽。

マーラーの大音響が鳴ったこの68()、シカゴが上野で得がたいマーラー体験をさせてくれていた同じ時間帯に、音響の悪いNHKホールではN響が定期をやっていた。ハインツ・ワルベルク指揮のマーラー5番である。同曲異演。偶然とはいえ日本では昔からこのようなことが割りとある。海外演奏団体との同曲のぶつかりはひどいものだ。何年か前、マイスタージンガーがバッティングしたことがあったが、あれはない。

N響の方は後日放送があった。ブラスのみなさんがんばったと思うが、録音で聴く限り全体的にひどい演奏だった。当時まだまだ大リーグ超一流と国内野球では明らかな落差があったのと同じだ。その後、N響は国内トッププレーヤーがたくさんはいりレベル的には海外の並みのオーケストラ以上の実力を持つこととなったが、でも、特色がない。満遍なくうまくて、そつなくて、何でもこなし、でも、サヴァリッシュの棒の下、ジンタ調のフニクリフニクラをやったかと思うと、シュタインの棒で本格運命などもする。いずれにしても重い。あの自分の音さえ聴きわけられないようなホールでは耳が育たない。最高の実力をもった人たちの集団どまりなのである。その先がない。香りがない。余韻が歌わない。欲しいのは揺れ動くアンサンブル。生きた音楽。それが欲しい。この日本で何故、N響のようなトッププレーヤーたちのオーケストラに専用ホールが無いのか不思議だ。最初はいくら異国文化だったといっても歴史を積んできたわけだし、財力が無いわけでもないと思うし、まして、異国に相撲の土俵を作るといったことでもないし、21世紀に突入したこの時期、彼らのために我々のために是非本当のホールを造る必要がある。

結局、シカゴの公演はそれほど尾を引くことも無く、翌朝からはもとの日常に戻れた。シカゴにしてもルーチンワークであのような演奏を毎日おこなっているわけであり、日本人を見返してやる、と言った状況でもないわけで、演奏者と聴衆の気持ちの乖離があったのかもしれない。

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0014- 電気河童の夢 1

2006-07-09 00:33:44 | 電気河童シリーズ

河童はカパコと歩いてる。渋谷の雑踏の中、オーチャードでエヴァ・メイのラ・トラヴィアータを観終えたところだ。

アルフレッド河童「I love you」

ヴィオレッタカパコ「No, you love me more than I love you」

第2幕第一場後半のカタルシスを思い出しながら、僕らは塔レコに向かった。広いクラシックフロアで物色を始めた。

アルフレッド「僕はいつもここにきてるので今日は特別欲しいものはないんだ。カパコは何か欲しいのあるの?」

ヴィオレッタ「ブラームスのラプソディが聴きたいわ。」

アルフレッド「ん?」

ヴィオレッタ「ブラームスのラプソディ。」

アルフレッド「(ブラームスにラプソディなんてあったっけ。カパコのことだから、アルト・ラプソディでないのは明白だし。困った。)」

ヴィオレッタ「ねぇ。」

アルフレッド「とりあえず、Bのところ見てみようか。」

ヴィオレッタ「Bだけど、そっちの管弦楽の方みてもダメじゃない。ピアノだもの。」

アルフレッド「(そうか、ピアノの曲だったのか。)そうだね、いま行く。」

ヴィオレッタ「もっとこっちよ。ピアノ協奏曲じゃないんだから。」

アルフレッド「(そうか、ピアノの独奏曲だな。) ブラームスのピアノ曲って思ったよりたくさんあるんだね。」

ヴィオレッタ「あったわ。本当はアシュケナージが好きなんだけど、これは知らない人だけどこれしかないみたいだから、これ欲しいな。」

アルフレッド「(アシュケナージとこの河童を比べたら、絶対に河童の勝ちだな。アシュケナージは昔、レコ芸のインタビューでオペラ嫌いとして一気に評判をおとしたことがあったし。) そうだね。このまえのセル&クリーヴランドのベートーヴェン交響曲全集どうだった? 今日はベートーヴェンのピアノ協奏曲全集でも一緒にゲットしようか。」

ヴィオレッタ「あら、アシュケナージの全集があるわ。」

アルフレッド「(しまった。メータ指揮ウィーン・フィルの伴奏でアシュケナージのピアノによる定番があった。) そうだね。その全集は20年ぐらい前に出たものだけど、もっと新しいのがいいんじゃないのか。」

ヴィオレッタ「ううん。これがいいわ。」

アルフレッド「(やぶへびだった。)じゃ一緒に買おう。」

河童「今日のトラヴィアータはよかったね。僕はこのオペラをみるといつも、ヴィオレッタに自分を重ねてみてしまうんだ。オスなのに。」

カパコ「どうして。」

河童「よくわからないけど、不埒なアルフレッドと自分が重なってしまうことを無意識に避けているのかもしれない。このオペラの最後のシーンを見てると、自分の人生なんかどうなってもよくて、死ぬまでオペラを見つづけていたくなってしまうんだ。MET座の河童の気持ちだね。
私の人生は短く、華やかで、苦しく、あぁ不思議だわ、なんと体が軽いことか、アルフレッド、私は、今、生まれ変わるのよ。
って終わるじゃない。人生もパソコンみたいにリセットボタンが欲しいときもある。」

カパコ「ふーん。ところで、私はお父さんのジェルモンもタイプだわ。」

河童「やっぱりな。そんな気がしてたんだ。カパコはヴィオレッタになりきって観ていたと言うことだよ。」

カパコ「二人でヴィオレッタになりきってもしょうがない。」

河童「今日は二人とも休憩時間も関係なく座りっぱなしだったね。やはりオペラのドラマ性は答えがわかっていても、ハイレベルな歌とかが緊張した気持ちを継続させてくれるよね。2時間後の答えはわかっていてもドラマのプロセスの充実度がすごかった。」
カパコ「そうだったわね。でも不埒な人間同士が不埒な出会いをすれば、かならず悲劇は訪れるものよ。だってE=mc↑2でしょ。」

河童「いつから物理学者になったんだ。なんだそれ。」

カパコ「エネルギー保存則だったわよね。人間ツキあれば苦あり、ってね。でもねツキじゃなくで努力が大事なの。必ず報われるから。不埒な二人に勝ち取ることの出来る幸せはなかったのかもね。だって、人生E=mc↑2だもの。」

河童「I knew it.これからはカパコのことだけ考えて生きるよ。」


Brahms
2 Rhapsodien op.79 二つの狂詩曲 ロ短調 ト短調

 

 

 


0013- 六本木WAVE Night

2006-07-07 00:00:16 | 静かな悪友S





1999年12月25日(土)、六本木WAVEは閉店した。
日比谷線六本木駅を出て、六本木通りを渋谷方向に向かうと麻布警察があり、その先に日産のビルがありその先隣りの円筒形のビル。エレベータを4階で降りると、右側がジャズコーナー、左側がクラシックである。何度かレイアウトが変わったが、同じフロアにジャズとクラシックがあるというのは、銀座の山野楽器なども同じスタイルだ。河童はジャズとクラシックは全然違うものだと思うけど、両方好きという人は割と多い。とくにオジサン系に。フリードリッヒ・グルダはマジに取り組んでいたのだろうか。単なる息抜きではなかったのか。そんな気持であったなら別に聴きたいとも思わない。ジャズは内部から湧き出る感情である。それをしっかりと受けとめて聴くものだ。やるほうも真剣勝負でなければならない。リコのために、のような甘いメロディーから始めて、その後ジャズを通過しただけだったのでは無いだろうかと感じる。
それで、左側がクラシックコーナー。そんなに大きなスペースではないが、そんななかにモーツアルト・ハウスがある。少し間仕切りされていて、いい感じであった。そのあと確かオペラや歌のコーナーになったような記憶がある。クラシックコーナーは完全に多品種少容量のポリシーとみた。どこかのお店みたいに同じ商品をダラダラならべることもなく、コアな品が揃っていた。渋谷の東急本店通りのビルの一角にあったHMVなんかもその頃はやはりうぶだった。
12月になり閉店セールが始まった。日を追うごとにだんだん安くなっていくのである。ある日河童も悪友と禿鷹のごとく、漁りにいってみた。でもいいものはもうない。賞味期限が切れてなくて安くできないものや、売れ筋ではない初期のオペラなどがなんとなくならんでいる。これは河童の出番だ。

河童「このデニス・ブレインのセット物はなんで定価なんだ。」

店員「はい。まだ賞味期限が切れてませんので。」

河童「割引してくれたら買う。」

店員「だめです。」

河童「河童の記憶によるとこのなかの1枚は、別のシリーズでも出ていて、そっちのほうは賞味期限が切れているはずだ。だからこのボックスは丸ごと安くしても法律違反ではないはずだ。」

静かな悪友S「そうだそうだ。」

店員「。。。。」

河童「なぁ。」

店員「少々お待ちください。」

ムム

店員B「お河童様。お待たせしました。お河童様の言う通りでございました。割引対象でした。」

河童「で、5割オフだろうね。」

店員B「。。。。。。。。。。はい。そうでございます。」


こうやって河童はデニス・ブレインの12枚セットものを格安で手に入れたのだった。
1954年ルツェルンの第九でフルトヴェングラーのもと、ホルンを吹いていたブレインはフィルハーモニアのオケCDで割と聴くことができる。しかしソロの味はやはり格別である。カラヤン好みと言われる前からやわらかで滑るようなビロードの音、境目のないフレーズ。やはり素晴らしかったのであろう。しかしその夭折は車とともにあっというまにやってきてしまった。今日の割引価格は長年お世話になったWAVEへのお返しだ。
ほかにはグルックやヘンデルのオペラなど売れ筋でないものを買い、ナップサックに入れて帰った。はずだった。しかしここは六本木だった。河童の皿を潤さなければならない。河童用のアルコールで皿を洗い、五臓六腑にしみわたった頃には、CDの割引価格など意味もなくなるぐらい酩酊河童になっていた。

WAVEは、今の六本木駅からバブルヒルズビルへ通る地下通路のあたりに位置していた。
「WAVEにCDを買いに行こう」というのは合言葉であり、CD買いは口実。そのあとの1次会は河童好物の〆た鯖がうまい行きつけのおばんざいでおいしいものを食べながら買ってきたCDを見せっこするのである。バブルヒルズビルができたせいで、我らの楽しみは一つ消えてしまったような気がする。
おわり




0012 ホロヴィッツ・ピアニッシモ

2006-07-06 00:12:16 | 音楽夜話





河童はいつのものように週末のフライデーナイトフィーバーの翌朝、タクシードライバーのコロンバスサークルを、むかいブラッデマリーを求めてふらついていた。河童のボキャも乾いた皿のようだ。
ふと前を見ると、同じような風体で歩く東洋人と思しき人間界の発光ダイオードみたいな雰囲気でカロリー・トゥー・マッチ気味の動き、やばいと思いながら人間ウォッチをしてたら案の定何か落とした。ノートのようなのであわてて拾ってあげて渡そうと思ったらマンホールに消えてしまった。このノートを届けないといけないと思った河童は中を覗いてみた。なにやらレビューのようなことが人間語で書いてある。


1986年12月14日(日)4:00p.m. メトロポリタン・オペラハウス
ピアノ、ウラディミール・ホロヴィッツ
(プログラムはSTAGEBILLを参照のこと)

 物見が半分はいっていなかったといったら嘘になるであろう。しかし、会社を休んであの寒い中(12月4日)2時間並んでチケットを買ったのだ。日本ではいくらでチケットを買ったのだろうか。この前、ホロヴィッツが日本へ行ったときは前回と違ってずいぶん評判が良かったらしいが。ここニューヨークでも彼を聴けることはほとんど全くない。去年かおととし、たしかカーネギーホールで一度ひらいたきりだ。というわけでたしかに物見的気分はこちらとしてもかなりあったのはたしかだ。
 メトの私の席は座りなれた安い席。今日はそのオペラのマイシートよりも安い15ドル(注)。また、いつものオペラのように双眼鏡をもっている。ステージは閉じ、いつもオーケストラがはいるオーケストラ・ピットをふさいでその上にピアノが置いてある。従ってずいぶんと前に突き出ている感じだ。また、このメトであるから音は満遍なく非常に良く、持参の双眼鏡とあわせ遠近感はかなり解消されている。
 しかし、私はこの1904年生まれの高名なピアニストを、物見的気持ちをもって行ったことを少なからず反省しなければならない。ここにはたしかに音楽があったと思うのだ。音楽とは何であろう。いや音楽は何であれ全てはピアニシモから発生すべきだということをいやというほど教えられた。本当の音楽とは常にこうあるべきなのだ!!!!
 なんというピアニシモの美しさであったことか。特にものすごかったのがモーツァルトのソナタK330のアンダンテとラフマニノフのプレリュードop32。ここにはピアノのピアニシモの表現の最高の美しさ、そしてホロヴィッツの真骨頂とも言えるべきものがぞくぞくする形で表現されていた。過去に到達した全ての技術をなげうった、まさに、かれた水墨画のようなシンプルな美しさが存在していた。私がこのようなリサイタルでこれほど驚いたコンサートはいまだかつてなかった。本当に信じられない領域に達していると言っても差し支えない。
 そして、もう一つ驚いたこと。それはスタッカートである。あの歯切れの良さは一体どこからくるのであろうか。音の一粒一粒がまるで嵐のあとの水滴のようにキレギレとなってキラキラと輝くのである。なにもスカルラッティだけではない。今日のプログラム全面にわたっていたのはピアニシモの音楽もさることながら、まさしくこの切れ味の良いピアノの水滴音ではなかったのか! このピアニシモとスタッカートの音が微妙に交錯しあった時、それは一体どのような音楽になるのか。本当にそこに存在していなければわからないとはこのことであろう。
 ラフマニノフは華麗と言うよりもむしろ淡白でさえあり、そこには光ではなく全てを通り越してきた後の全てがある。そう、失われた光は取り戻せないけれども、彼の中にはそれらの全てが脳の連続作用としてチェーンのように絡まっているのだ。そう、彼はそれをひとつひとつときほぐしていくように、そして愛しむように彼の瞬間の全てを魅せてくれた。ラフマニノフもスクリャービンも私は初体験的雰囲気の音楽の作りに揺り動かされたが、約30分の休憩後の全てのプログラムがもっとすごかった。聴けば聴くほど、また噛みしめれば噛みしめるほど味が出てくるのであった。アラベスクにおける音の水彩画のような色どり。ここにはゴッホが到達したような世界がある。そしてリストの鍵盤の上を流れていくような音の粒立ち。なんという微妙で静かな世界なことか。
 ショパン。これぞ、まさしく、ホロヴィッツが、いや彼のみが見た「偉大なものは単純」な世界ではなかったか。現代のともすれば音が埋め尽くしてしまうような演奏の全く逆方向に進行していく音楽。ショパンの音楽が、音のひとつひとつの粒立ちに、まるで羽でも生えたかのように軽やかに飛び去っていく。何たる美しさか。マズルカの微妙な伴奏パートのリズム、そして、スケルツオにおけるトリオ部のなんと落ち着いた世界。音楽は無限大に向かって収束するものなのだ。ここには美しさを通り越した何かが存在した。
 ホロヴィッツが示してくれたこと。それは音楽というものは全てピアニシモからメゾフォルテの領域で表現できると言うことだ。こうやって双眼鏡をのぞいていると彼の手の動きが非常によくわかる。やわらかい、そして大きな手である。いつどこにでもすぐ飛んでいけるような大きな手。しかし、彼の表現したことは大きな音でもなければ技術の誇示でもない。まさしく、ピアニシモからメゾフォルテの音楽であった。こうやって見ていると彼はもう当然のことながら手・指は鍵盤と同じ性質のものになっているのであまり気をまわさない。気をまわすのは、その指を鍵盤に押しつける深さ浅さである。ひとつひとつの音全てがまるで異なるのはこの鍵盤を押しつける深さの度合いが全て異なるからではないだろうか!実際の彼の指の動きは、どの鍵盤へという横の動きは一心同体でもうほとんど意識されていない。彼が意識としてもつただ一つのこと、それは鍵盤をどれだけ深く、いや浅くたたくかということなのだ。時にはこすりつける程度に、またある時ははっきりと、その深度が彼の音楽をあらわしている。つまり縦の動き。
 彼の指の横の動きは、それは依然として驚嘆すべきものがいまだあるけれども、それはもうどうでもよいことなのだ。少しばかりのミスタッチなど弾く方も聴く方もどうでもよいことなのだ。私たちが見ているのは、まさしく縦の動きではなかったか。彼はこの動きに全てを尽くす。それがとりもなおさず音の強弱となってあらわれる。彼が行なったのはそのことだったのだ。そして今日はものの見事に成功した。全ての響きは無限大の収束方向へ統一され、幾何学的美しさをもっていたといっても過言ではない。恐ろしく響きの厚さが感じられる演奏だったのだ。 私がピアノ演奏家であったとしたら、あのような形で全てを表現できるであろうか。信じられない。信じることは容易いものではない。私はここに信じるべき演奏をみたといえる。ここにはたしかに音楽と言うものを確信させる何かがあったのだ。
 たまに宙に浮いた手をひらひらと動かしてみせるのは、あれは一種の運動であろう。常に動かしていなければならないのだ。たとえ一秒間の片手の休憩も彼にとっては何か調子を崩す原因になるかもしれないのだ。そして、時たま演奏中ですら左手にハンカチをもってきて口を拭くのはもうどうしようもないことなのだ。また、ふと思ったように目があらぬ方向を向くのもいたしかたのないことなのだ。演奏後、人差し指を高く上げるのは、私がNO.1と言っているのであろうか。また、手首をアメリカ人ならブー(no good)のときにやるように動かして聴衆を笑わせるのは一種の癖であろう。まるで、今日の演奏もまた私の数あるなかのひとつだよ、とでも言いたげに。現にあの元気さだったらこれからも何度もコンサートにでられるのではないか。
 とにかく私はまたしても教えられてしまったみたいだ。この貴重な演奏体験は頭の裏側に刻み込まなければならない。音楽とはピアニシモから発生するのだ!

(注)雪の積もるなかチケットを買うために並んだ。わりと唐突なノーティスであったためとにかく並んだのだが、少したったところで前の列の方からざわめきが伝わってきた。今日の発売チケットはキャッシュ・オンリーらしい。カードが使えない。このマンハッタンで!オーマイガッ。近くのジンジャーマンだったら3ドルのウィスキー一杯だってカードで払っている連中さえいるこの島で。私は恐る恐る財布をのぞいてみた。33ドルあった。周りの人に、お金貸して、とも言えず15ドル席を2枚買った。プラチナチケットではなかったが、当日までにはかなりの値がついたようだった。今日の15ドル席は普段はメトのファミリーサークル席であり、並んだ甲斐がありオペラの定席よりずいぶん前を取ることができ見晴らしもよかった。アンビリーバボな演奏であったことはたしか。日本では、どなたかがひび割れた骨董などと言っていた。評論の全文は読んでいないけれども、日常の音楽シーンに浸っていない垂直的な発言になんともいえない違和感を持ったものだ。ひび割れていない新品が欲しいなら数あるソフトから選べばいい。演奏結果だけをいいたいのならもう1000回多く聴いておくべき。始まる前の生ライブからコンサートは選べない。評論家として音楽愛好者として何を言いたかったのだろうか。
(「ひびわれた骨董」、「cracked antique」についてはまた別途)

New York Times, Monday, December, 15,1986
Recital: Horowitz Plays Mozart, Chopin and Liszt
By Bernard Holland
VLADIMIR HOROWITZ was back at the Metropolitan-Opera house yesterday afternoon - peeking out shyly from the wings, wiggling his fingers in greeting, mugging gently for the first few rows, rubbing his hands in vigorous anticipation. Mr.Horowitz made sure we knew this was no ordinary concert even before the first note was played.
 The 82-year old pianist seems in the midst of rebirth. After a long withdrawal from the stage and shaky return to it, there has been a real flowering to his career this past year, one that has included triumphal European tours and a number of new records. Word has it that early in the new year Mr.Horowitz will be off once again - to Milan to record Liszt and Mozart piano concertos with Carlo Maria Giulini and players from La Scala. The young Horowitz recorded very few concertos. In his advancing years, ambition seems to be growing.
 Given Mr.Horowitz’s lifelong reputation for explosive pianism - grand moments purveyed with maximum of excitement - yesterday’s program was almost as fascinating as the playing itself. Roughly half its music was small in scale and modest in technical demands. The Chopin B-minor Mazurka and the Mozart pieces ? the M-minor Adagio, the Rondo in D, the Sonata in C(K.330) - have been met and conquered by teen-agers only halfway serious in the study of the instrument.
 Is Mr.Horowitz playing such simple music because he has to - somehow to nurse a failing physical ability? One came away from the Met yesterday thinking not - that rather the ”smallness” of this repertory represented less a weakening technique than a new conduit for the old talent. Music awaits a truly thoughtful study of performers past 7- years of age; when it comes, I think it will agree that power does not necessarily diminish with age but simply changes its shape.

 Thus the opening Scarlatti and Mozart pieces spoke almost in whispers - just as the Schumann “Arabesque” and Liszt’s “Valse Oubliee” were eerily subdued. Their power, however, was considerable, but transformed, drained of any old brutalities or arrogance and couched in terms of great calmness. It is odd how a whole generation of young pianists has based its collective style on Horowitzian principles, while probably misunderstanding the nature of this playing.
 For, as yesterday demonstrated, Mr.Horowitz’s technique lies not in its ability to thunder in the bass line of Scriabin’s D-sharp-minor Etude or tootle at incredible speeds through a Moszkowski encore; it is a less-given talent - one that conceives a sound, colors it in mind with the appropriate tint and resonance, and then reproduces it precisely with the movement of a hand on keyboard. It is this amazing gift for using the quality of sound as a metaphor for human speech that sets Mr.Horowitz apart from his admires and imitators, many of whom play more quickly, more loudly and with more right notes than he.
 Once wondered, for example, at the Rachmaninoff Prelude in G, whose substance seemed evasive, shadowy, seductive and yet somehow perfectly clear. Through Liszt’s added filigree in the “Soiree de Vienne” arrangements, Schubert’s wonderful little waltzes shone in all their innocence and inspiration. When Mr.Horowitz had pianistic troubles, they were usually in Mozart’s straightforward, highly exposed scale passages.
Juilliard students could have played these figures in their sleep, but who among us could replicate the warm conversational tone of the Rond’s staccato passages or make ears deadened by two centuries of deceptive cadences accept the one at the end of this piece with total surprise?

Throughout, one felt mor spontaneity than deliberation - the third of Schubert’s “Moments Musicaux” (his first encore) sounded almost like an interpretation thinking on its feet. How totally different was this crisp separation of notes from the smooth and totally different version of the same piece recorded for Deutsche Grammophon engineers a few month ago.
 This is another reason that yesterday’s large, quietly enthusiastic audience had to congratulate itself. Each added chance to experience Mr.Horowitz’s special set of gifts is a gift in itself, but there is also the setting - the positioning that allows listeners to catch random thoughts on the fly. Horowitz on records is deceptive, being rarely a summation of an artist’s beliefs but rather the captured moments of one of music’s greatest free-associators.






0011- 全日本吹奏楽コンクール

2006-07-05 01:19:48 | 静かな悪友S

1








河童―「最近の大会は、金賞、銀賞、銅賞みたいな順位付けになっているのか。」

静かな悪友S―「最近ではない。もうずいぶんと昔からそうなっている。」

河童―「なめんじゃねぇ。なんで一位が何校もあるんだ。」

S―「知らん。」

河童―「審査員の耳が悪くなっただけじゃねぇのか。」

S―「そうかもしれん。」

河童―「自分たちの耳を棚に上げて点数付けか。なめんじゃねぇ。」

S―「最近は中学高校ともレベルの向上が著しくて、その差が狭まっていると思う。」

河童―「なんだぁ。それじゃ審査員の耳だけが昔のままでレベルは上がっていないと言うことじゃねぇか。」

S―「そうかもしれん。たしかに高校野球や春高バレーで金賞4校、銀賞3校みたいな話しは無いな。」

河童―「なんで完膚なきまで白黒つけないんだ。どうせ審査員なんてろくでもねぇ連中がやってるんだろ。」

S―「よくわからんが、毎年ころころよく変わってるようだな。オケの団員とかも審査をしたりしてるみたいだ。その辺からあらためないとだめなんだろうね。」

河童―「なさけねぇ団体だな。その昔ははっきりと一位、二位、三位、四位、五位、六位、七位、八位、、、、、となっていたはずだ。」

S―「昔は五位ぐらいまでの学校は、音楽に少し詳しい連中はみんな知っていたし。」

河童―「あたりめぇだ。全国大会に出れば部活の年間予算もたんまりもらえたんだ。」

S―「そうなんだ。」

河童―「俺はきいたことがあるぞ。その昔エルザの行進で全国大会三位にはいった学校があったな。例のY校だ。」

S―「おっ。その名前聞いたことがあるぞ。」

河童―「あたっりめぇだろう。弱音系がきれいで定評のあった高校だ。いまどき、弱音が美しいとか、流れるような音楽に特徴がある、などといった学校なんかあるもんか。ただ技術的にうまいだけじゃねぇのか。」

S―「かもな。それでその高校は三位どまりだったのか。」

河童―「ちょっとまて、エルザのときは七位で、翌年カリニコフで三位だったかな。ジャンニーニだったかな。ちょっと皿が乾きすぎだ。その翌年ずにのって、パルジファル!をやったら弱音過ぎて途中で落ちてしまい、全国までいけなかったようだ。」

S―「なるほど。それはそれでなんとなくありそうな話しだなぁ。昔から時間の流れに乗っていなかっただけなんだろう、審査員が。その年だけ聴けばいいみたいな。どっかの音楽評論家みたいだなぁ。」

河童―「わぅぅ」

S―「なんだその声は。」

河童―「河童が意見に同意したときの声だ。」

S「結局、文化の平板化だと思う。」

河童―「なんだそれ。」

S―「つまりだな。便利文化に感化されて育ってしまうと上位互換性しかなくなってしまうんだ。」

河童―「なんだそれ。パソコンみてぇだな。」

S―「つまりだな。どんな辺鄙なところに旅に出ても、寝るときはクーラーにベット。トイレは水洗洋式ウォシュレットでなければならなくなるのだ。観光のときだけ、すごい景色だな、とか言っている。一回楽してしまうとそれ以下での生活様式は出来なくなるわけだ。」

河童―「音楽と水洗便所が関係あるのか。」

S―「つまりだな、一度うまくなって技術が上位互換性レベルまであがってしまうと特色がなくなってしまうんだ。地域的な特色がなくなってきて、どこのオケもただ単にうまいだけ。そしてどこへ行っても同じレベルの演奏となってしまう。つまり文化の平板化だ。」

河童―「そしたら審査員もある程度しょうがないんじゃないのか。まて、このせりふ最初と逆のことしゃべってるな。自分でも変に納得してしまったな。」

S―「いやいや、そうじゃないんだ。いまどきの審査員は聴く経験を持っていないんではないかと思う。文化の平板化というならば、その平板の地球の上の音楽を普段から聴きまくってなければならないと思うんだ。そういう意味では耳が悪いだけではなく、経験が少なすぎるんだ。吹奏楽だけ聴いていてもだめだな。」

河童―「そりゃそうだ。昔、高校の定期演奏会でベートーベンの運命の第3、4楽章とかやってたクレイジーな高校があったな。」

S―「それも例のY校なんだろう。」

河童―「わぅぅ」

S―「ほら。でもそうやって、やる方は腕を磨き、聴く方は耳と皿を磨いたんだな。」

河童「わぅぅ」




0010- 独立宣言230年 自由の女神120年

2006-07-04 00:02:00 | マンハッタン

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ブロードウエイはパインストリートを越え、右にトリニティーチャーチを仰ぎ見ながら、ウォールストリートをやり過ごし、レクターストリートをスキップすると、まもなくバッテリーパークに着く。そこから見るやや遠目の、スタチュー・オブ・リバティーは今日もしっかり立っている。

昔、地下鉄コートランド駅、アレキサンダー・デパートの上に天まで届くビルがあった頃、その天から睥睨したながめは絶景であった。右にハドソンリヴァー、その先にニュージャージー、左にイーストリヴァーを見ながら、そして正面やや左にスタッテン・アイランド、やや右に、スタチュー・オブ・リバティーを展望することが出来た。ジャンプするとどこまでも飛んでいけるような気がした。そのビルも今は無い。

アメリカが独立宣言をしたのが1776年。独立百年記念で自由の女神をフランスから寄贈されたのが1886年。百年記念と言いながら、110年たっていた。だから自由の女神寄贈100年祭は1986年。このお祭のとき、レーガン大統領はたしか空母だか戦艦だかを降りなかったはずだ。当時リビアのカダフィがマンハッタンの地下鉄に爆弾を仕掛ける、などといった噂が河童界に流れていたのだ。100年祭で世界中からたくさんの船が来てお祝いをし、自国の、島のような空母、戦艦なども山のように寄港した。しかし、レーガンは確か上陸しなかった。いずれにしろ独立記念日と自由の女神寄贈とは百年単位+10年という割と中途半端な数値である。

ニューヨーク・フィルの最初の公演は1842年アポロ劇場においておこなわれた。思えば長い歳月が経ったものだ。ざっと164シーズン。数々の指揮者がオーケストラとともにあった。未来の音は聴くことが出来ない。しかし音を出すことによってしか未来は創造出来ない。未来を創造するのは夢・希望に膨らむ若手プレーヤーをおいて他にない。河童に出来ることは残念ながら昔の音を思い出すということだけだ。

指揮者と歌い手、変な話、亡くなると両方ともあっという間に忘れ去られてしまう。場合が多い。例えばヴァントの盛り上がり。あれは一体なんだったのか。その意味では聴衆は冷たい。今、ここで、音楽を発する演奏家が大事なのである。この冷たい現実はしかししっかり受けとめなければならない。音楽をする喜びとともに聴かせることが出来る喜び、両方感じて欲しい。

作曲家は未来の音を予言する。聴衆にとっては予期せぬものだから張り切って聴けばいいものを、その根性がなくなってきている。駄作が増えたのではなく、予期せぬ音楽の広がり緊張感についていけなくなってしまったのだ。最近の河童は半世紀前のいわゆる当時の現代音楽も何故か懐かしい。誰か音楽の行き先を教えて欲しいものだ。熟した音楽はどこへ向かっているのであろうか。

(河童の記憶だけで書いてます)


0009- マーラー MET

2006-07-03 00:26:05 | 音楽夜話MET
 ハンフリー・バートンの本「バーンスタインの生涯」を読んでみると、途中「カラヤンって誰?」といった感じの箇所がある。ヨーロッパを向いているクラシック好きからは途方もなく馬鹿にされる瞬間であろうと思うが、この本を熱中して読んでいる間は何の違和感も無く、すっと理解できる。その後、バーンスタインはヨーロッパにフレッシュな殴り込みをしたわけだが、その情熱的で博学な人物に、と同時に、素人っぽい指揮姿、単刀直入な感情表出などがひどく新鮮にみえてヨーロッパでうまくいったのではないかと思っている。
ところでさかのぼって、同じ作曲家兼指揮者のマーラーはどんな気持ちでアメリカまで棒を振りに来たのだろうか。MET、ニューヨーク・フィルを曲がりなりにもひと時とはいえ手中におさめたわけだから。

マーラーはMETで3シーズン過ごすことになった。1907年暮れニューヨークへ旅立った。人生の終末も近い。しかし、そんなことを現実として受け止めることは出来ない。先に進むしか道は無い。
彼のMETにおける初日は1908年1月1日(水)、新演出によるトリスタンとイゾルデ。その前後の模様はどうだったの?

「月曜日、コンリッド氏はマーラーをメトロポリタン・オーケストラに紹介した。2,3の挨拶の言葉の後、彼はトリスタンのリハーサルのために指揮棒を取った。彼はもっともらしく次のように宣言し、先に進むことをしなかった。『劇場においては他の全てのリハーサルはやめなければならない。』他の部屋でリハーサルを行っていた合唱はそこで直ちにやめさせられた。」(ミュージカルアメリカ1907年12月28日)。
いの一番のイゾルデを歌うのはどこにあってもOlive Fremstadであった。彼女はさきの夏、ウィーンでマーラーからその役のコーチを受けていた。Burgstallerはマーラーから指名されていたが、ホーボーケンで軽装2輪馬車から投げ出されたとき肩に怪我をしたため、トリスタンはHeinrich Knoteに替わった。
 1908年1月1日マーラーのデビューは、コンリッド氏最後の大当たりの興行であった。そのガラの聴衆には、2人のニューヨークのイゾルデたち、すなわちブルーの目鮮やかなLillian Nordica、黒い瞳のJohanna Gadskiがいた。「メトロポリタンの新しい音楽監督が初めてオーケストラピットに現れたとき、一階席前方の半分の人たちは彼を見ようと立ち上がった。そして全ての観客席から万雷の拍手が起こった。彼は威厳をもってお辞儀をし、そして椅子に座った。」(プレス紙)
一幕ごとに熱烈な拍手があり、カーテンコールでは見事な月桂冠の花輪があった。
 全ての新聞は、歌手に対しオーケストラバランスに精通しているマーラーの思慮に打たれた。Sun紙におけるW.J.Hendersonのトリスタンとイゾルデの評はニューヨークの評論家たちの反応を集約している。「冒頭の前奏曲から、イゾルデが唇にカップを持っていくまでトランペットもトロンボーンも全開のフォルテは聴かれない。それは破局の崩壊とともにやってくる。 彼は、ワーグナーが自分のアイデアを網目のように張り巡らした虹のような音の網を、最も頑丈で最も素晴らしいつむいだ織物の手触りのように表現した。なによりもまず、雄弁で多種多様なワーグナーの管弦楽法が、各ソロフレーズを明確に引き出すシンプルなプロセスによって表現されていた。一方、ハーモニックとコントラプンタルな背景は決して無視されることはなかった。」

 しかし、Hendersonやその他多数の人たちはここに新しいものは何もないと指摘した。また、アントン・ザイドルがかつて言ったように「この土地に強力な歌手がいた頃の古き勇猛な日々においてこれら全てのことをしたものだ。」と指摘した。声と楽器のバランス支配はあるけれども、マーラーはひとつの重大な誤算をしてしまったように思える。プレス紙は彼のカットを批判した多数の新聞のうちのひとつであった。「マーラーはワーグナーのスコアを切断している。」と読める見出しの下には次のように書かれていた。
「メトロポリタンオペラハウスで昨晩演奏された[ブランゲーネとマルケ王の音楽が失われた]トリスタンとイゾルデの最終幕を聴いた人たちは次のように不思議がった。マーラーは外国ということで、省略形でワーグナーのスコアをあえて表現したのだろうか、また、ニューヨークという‘音楽的野蛮人’相手にこの切り取りをしたのだろうか、と不思議に思った。
マーラーは偉大な指揮者で偉大な音楽家である。しかし、彼がアメリカのオペラ通に敬意を保ちたいと望むなら、彼らを聡明な音楽愛好家として扱わなければならない。彼らのワーグナーオペラの経験は今日始まったものではないのである。マーラーがそうするのが良いとして省いたトリスタンとイゾルデの重要な部分を早く元に戻さない限り、オペラ通は期待すべき権利を奪い取られていると感じるであろう。」(プレス1908年1月10日)

演奏は7:45p.m.に始まり3つの幕と2つの長いインターミッションのあと11:30p.m.に終わった。(1930年代にアルトゥール・ボダンスキによって大量にカットされた演奏がこの長さと同じであった。)


といった具合。METでは思いっきりカットをしたようだ。2回の休憩を含め3時間45分だから、かなりのカットと超高速の予測。このカットにアメリカ人は馬鹿にされたと感じたようだ。オールド・メトでこの日までに20年以上の歴史を作ってきたわけだし。
オールド・メトの最初の公演は1883年10月22日グノーのファウスト。
ファウスト-Campanini 指揮-Vianesi 

1908年1月1日トリスタンとイゾルデ(新演出)
指揮グスタフ・マーラー
トリスタン:Heinrich Knote
イゾルデ:Olive Fremstad
クルヴェナール:Anton Van Rooy
ブランゲーネ:Louise Homer
マルケ王:Robert Blass
メロー:Adolph Muhlmann

結局マーラーは3シーズン(1908-1-1~1910-3-21)をMETですごし、55回バトンを持ち8つの出し物を振った。トリスタンは12回。ワルキューレ5回。ジークフリート5回。フィガロ8回。ドンジョヴァンニ6回。フィデリオ4回。など。

(New York Philharmonic Mahler Broadcast, Annals of Metropolitan Opera河童訳)





0008- マルヴェン マリア・エリッツァ、世界初演、メータNYP、カナワ、カッツ

2006-07-02 02:22:57 | 音楽夜話NYP

 1985年1月15日(火) 7:30pm エイヴリー・フィッシャー・ホール

ウェーベルン 交響曲Op.21

シュトラウス 4つの最後の歌
 ソプラノ、キリ・テ・カナワ、NYPデビュー

シュトラウス マルヴェン(マローズ、葵) 世界初演
 ソプラノ、キリ・テ・カナワ
 ピアノ、マーティン・カッツ

Int

エルガー 交響曲第1番変イ長調 Op.55

ズービン・メータ 指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック



 エレクトラを体験してしまうとサロメはあまい、と思ってしまう。ドラマ性、調性などサロメは劇的であるが、エレクトラの、ドラマ性は言うに及ばず、調と無調の揺れ動きそのものの緊張感を一度感じてしまうと、そのトラップから抜け出すことが出来ない。

デュトワ&N響のたしか最後の公演でコンサート形式のエレクトラをやった。固唾を呑んで待つ聴衆。そこに巨大化したエリザベート・コンネルが現れたとき、聴衆からどよめきがもれた。ワーグナーの歌遣いが現れたと。聴く前から興奮状態の聴衆。すさまじい公演であった。リヒャルト・シュトラウスはエレクトラで頂点に達し、あとは時代をさかのぼり続けたのではないのだろうか。その最後の水源があの驚異的に異常に美しい「4つの最後の歌」、限りない時代錯誤ではあったかもしれないが、あまりの異様な美しさに時代錯誤の時代を超えて生き続けている。そしてそのあと作曲されたとする歌曲マルヴェン。この曲は多くの人は知らない。水源の先に水は無かったのか。


この曲の世界初演は写真にアップしてあるとおり。キリ・テ・カナワが歌った。彼女自身あまりに美しい。初演時の歌はあらためて聴いてみると割りとザックバランにやってる感じ。曲そのものも極度に深い味わいがあるのかどうか。「4つの最後の歌」の初演はフルトヴェングラー指揮によるフラグスタートの歌で、ゲネプロの録音は聴くことが出来るが、これは聴くのに努力がいる録音だ。それに比べマルヴェンはよい音であり、それぞれの曲。時代背景など、流れる歴史。


プログラムは河童語に訳してみたが皿技術がいまひとつだ。


“Malven”(“Mallows”) for Soprano and Piano

RICHARD STRAUSS

1948年後半の日付のあるリヒャルト・シュトラウスの最後の完成作品は未出版の歌曲”Malven”(“Mallows”)。今回の公演が世界初演。

“Malven”の存在は、シュトラウス専門家によって長い間知られていたし、また、ガルミッシュ・パルテンキルヘンのシュトラウス・アーカイヴにスケッチが存在していたけれども、その歌曲の文献はニュー・グローヴのシュトラウスの作品リストにもなければ、ノーマン・デルマー、マイケル・ケネディー、エルンスト・クラウゼらによる権威ある伝記にも存在していない。Erich H.Mueller von Asow博士のリヒャルト・シュトラウス:完全カタログ(ウィーン、1959)によると、その歌曲は未完成としてリストされている。

19849月に、”Malven”の唯一現存する手書き草稿が表面化して何かがあるように思われた。サザビーズが同年12月に、現存する”Malven”の手書き草稿をニューヨークでオークションを行なうと発表した。草稿はソプラノ歌手マリア・エリッツァの遺産の一部であった。彼女はシュトラウスのオペラの第一人者であり、1920年代、30年代前半にメトロポリタン・オペラで活躍したディーヴァであり、1982年に94才で亡くなった。シュトラウスは1948年後半、彼女のために”Malven”を作曲し、サイン付きスコアを194937日に彼女に送った。

「私が1215日に仕事の旅行ではなく診療に行く前に」、ローザンヌでの膀胱の手術のすぐあとに彼は手紙でマダム・エリッツァに言っている。「小さな歌曲を書き終え同封しました。たぶん、私はあなたに小さな喜びを与えることが出来る。どうぞ、私のためにそれを写真にとって、手書き草稿を持っておいて!」しかし、依頼されたコピーは送られなかったのは明白であった。

ズービン・メータは一度、個人的にマダム・エリッツァの”Malven”にアプローチしたことがあった。彼女は彼に、その歌曲-シュトラウスの息子のフランツの幾度かのリリースの願いでさえ拒んだ歌曲-を自分が生きている間は公での演奏をしないよう言っていた。メータはサザビーズがその草稿を持っていることを最近知り、初演の権利を得るようニューヨーク・フィルハーモニックに直訴した。フィルハーモニックは、草稿の購入者であるフレデリック・R・Koch基金、シュトラウス・ファミリー、マリア・エリッツァの遺産、の協力に感謝することとなった。

“Malven”の草稿スコア(2ページ、インク、作曲者直筆)には19481123日、モントルーと記されている。それはシュトラウスの最後の完成作品である“最後の4つの歌”の“9月”が完成した2ヵ月後であった。献呈文の最後の方にはこう書いてある。“いとしのマリアに、この最後のばらを”。この曲のタイトルの花(Malva属であり、Roses of Sharon,Swamp Rosesを包含する)は、シュトラウスの「ばらの騎士」でばらを運ぶオクタヴィンとしてのマリア・エリッツァの役、おそらくその両方を意味している。マダム・エリッツァはその生涯を通して、シュトラウスの音楽の最も重要な支持者であった。「ナクソス島のアリアドネ」では両方の版で初演のタイトルロールを歌った。「エジプトのヘレナ」や「サロメ」(エリッツァはシュトラウスが一番好きなサロメと言われていた)のタイトルロール、さらに「影のない女」の最初の皇女役であった。彼女は50年にわたり作曲者の親しい友でもあったし、また彼は彼女の美しさを大変に賞賛していた。彼が”Malven”を書いた同じ年の早い時期に、シュトラウスがプリマ・ドンナに送った歌曲“9月”の初期版草稿にには、“世界で最も美しい婦人へ”と書かれていた。

1948年、84才になったシュトラウスは見る影も無かった。第二次世界大戦においてドイツが負けたあと、彼はほぼ一文無しであった。彼はヨーロッパ音楽の伝統的保守的な権威から落ちてしまった。ロマンティックな音楽は人気がなくなっていた。いたるところにあった時代錯誤を思い浮かべてみるにつけても。彼は、第3帝国に協力した嫌疑を晴らす非ナチ化手続きをスイスで待たされていた。その年、彼は突然健康を害してしまった。シュトラウスと夫人はお金を作ってモントルー・パレス・ホテルをキープする為、いくつかの作曲の草稿コピーを作った。それらの数点をマダム・エリッツァが購入した。

1948年に、彼は広く世に認められることになる“4つの最後の歌”を完成させた。それはヘルマン・ヘッセ、ヨゼフ・フォン・アイヘンドルフのテキストによる。シュトラウスの死(194998日、尿道感染症で。のあと出版社によってそのタイトルがつけられた。

何人かの専門家は、シュトラウスは5つのオーケストラ付き歌曲を計画していたと考えている。理由は1949年のヘッセンのもう一つの詩”Besinnung”の歌曲のスケッチの存在、またもしかすると”Malven”のうわさから。

シュトラウスはときどき意気消沈し、いつも死のことばかり考えていた。彼は自分の時代は終わったと感じていた。194810月ロンドンにおいて、彼は外国での最後のコンサートを指揮した。シュトラウスは記者たちに宣言した。「私は重要な人間ではないし名声も無い。地位も失った。ドラマの終幕に言う、取るに足らない言葉に過ぎない。」

今後の計画についての質問に対して彼は笑って答えた。「おー、ちょうど死ぬときだ。」

12月膀胱の手術をしたあと、彼は悲しげに書いた。「何故、長生きして普段の生活に呼び戻され続けるのか、と自問している。」

驚くことはない。11月に作曲された歌曲”Malven”は当時の世界の黄昏のムードを刻印したような諦めの雰囲気を持っている。スイスの詩人でノーベル賞作家のベッティー・クノーベルのテキストによる”Malven”はシュトラウスの”Abschied(告別)”の構成と同じである。この、秋のようなもの悲しい素朴な感じの全体的に見事な歌曲は、抑制されていて個人的でロマンティックなスタイルの4つの最後の歌、音においておそらく9月に最も近い。しかしながら、”Malven”4つの最後の歌に比べて簡潔で、冒険の無い曲である。さらに、シュトラウスはその曲をオーケストラ付きの曲にするつもりであった証拠は何一つ無い。72小節。テンポはアレグレット。4分の2拍子。変ホ長調。”Malven”の最も忘れられない音楽的様相というのは、優美でときどき急上昇するようなメロディーラインと平行4度で満ちている手のこんだハーモニーのつくり、遠い調への予期せぬコード転換(しばしば完全増4度の音を強調させる、例えば、終結部の最終カデンツァの、変ホ長調、イ短調、変ホ長調、それらは最も関係の遠い最後から2番目の音節のコードはドミナント・コード機能を与えられている。)

“Malven”はピアノによる静かな11小節で始まる。歌はそのあとCで始まる。DからGへ完全4度上げ、最初の物思いにしずんだ11音のフレーズの終わりでCに戻る。シュトラウスは11小節のピアノ間奏により、詩を2つのパートに分けた。”Malven”の英語訳を行なったサザビーズのロンドンに拠点を置く草稿の専門家であるStephen Roeが言うには、作曲家はもとの詩に少し変更をくわえた。例えば、花の名前を付け加えた。

シュトラウスは人生の後半、ガルミッシュの自分の庭を歩きながら、花の寛大さに喜び足をとめた。訪問者に彼は言った。「私がもはやここにいなくても、それらは咲き続けるでしょう。」 “Malven”シュトラウスの音楽最後のばらを楽しむことが出来るまで約40年が過ぎた。


Malven

Aus Rosen,Pflox,

Zinienflor

Ragen im Garten

Malven empor

Duftlos und ohne

Des Purpus Glut

Wie ein verweintes

Blasses Gesicht

Unter dem goldnen

Himmlischen Licht

Und dann Verwehen

Leise im Wind

Zartliche Bluten

Sommers Gesind.

-Betty Knobel


   Mallows 

Among the roses,phlox and zinnias

Tower the mallows in the garden;

Scentless and drained of purple glow,

Resembling a tear-stained and pallid face

Washed by the golden,heavenly light;

And then,gently,they sway in the wind;

Dedicate blossoms,servants of summer.

  -Translated by Stephen Roe


(new york philharmonic stagebill 河童訳)