河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

0012 ホロヴィッツ・ピアニッシモ

2006-07-06 00:12:16 | 音楽夜話





河童はいつのものように週末のフライデーナイトフィーバーの翌朝、タクシードライバーのコロンバスサークルを、むかいブラッデマリーを求めてふらついていた。河童のボキャも乾いた皿のようだ。
ふと前を見ると、同じような風体で歩く東洋人と思しき人間界の発光ダイオードみたいな雰囲気でカロリー・トゥー・マッチ気味の動き、やばいと思いながら人間ウォッチをしてたら案の定何か落とした。ノートのようなのであわてて拾ってあげて渡そうと思ったらマンホールに消えてしまった。このノートを届けないといけないと思った河童は中を覗いてみた。なにやらレビューのようなことが人間語で書いてある。


1986年12月14日(日)4:00p.m. メトロポリタン・オペラハウス
ピアノ、ウラディミール・ホロヴィッツ
(プログラムはSTAGEBILLを参照のこと)

 物見が半分はいっていなかったといったら嘘になるであろう。しかし、会社を休んであの寒い中(12月4日)2時間並んでチケットを買ったのだ。日本ではいくらでチケットを買ったのだろうか。この前、ホロヴィッツが日本へ行ったときは前回と違ってずいぶん評判が良かったらしいが。ここニューヨークでも彼を聴けることはほとんど全くない。去年かおととし、たしかカーネギーホールで一度ひらいたきりだ。というわけでたしかに物見的気分はこちらとしてもかなりあったのはたしかだ。
 メトの私の席は座りなれた安い席。今日はそのオペラのマイシートよりも安い15ドル(注)。また、いつものオペラのように双眼鏡をもっている。ステージは閉じ、いつもオーケストラがはいるオーケストラ・ピットをふさいでその上にピアノが置いてある。従ってずいぶんと前に突き出ている感じだ。また、このメトであるから音は満遍なく非常に良く、持参の双眼鏡とあわせ遠近感はかなり解消されている。
 しかし、私はこの1904年生まれの高名なピアニストを、物見的気持ちをもって行ったことを少なからず反省しなければならない。ここにはたしかに音楽があったと思うのだ。音楽とは何であろう。いや音楽は何であれ全てはピアニシモから発生すべきだということをいやというほど教えられた。本当の音楽とは常にこうあるべきなのだ!!!!
 なんというピアニシモの美しさであったことか。特にものすごかったのがモーツァルトのソナタK330のアンダンテとラフマニノフのプレリュードop32。ここにはピアノのピアニシモの表現の最高の美しさ、そしてホロヴィッツの真骨頂とも言えるべきものがぞくぞくする形で表現されていた。過去に到達した全ての技術をなげうった、まさに、かれた水墨画のようなシンプルな美しさが存在していた。私がこのようなリサイタルでこれほど驚いたコンサートはいまだかつてなかった。本当に信じられない領域に達していると言っても差し支えない。
 そして、もう一つ驚いたこと。それはスタッカートである。あの歯切れの良さは一体どこからくるのであろうか。音の一粒一粒がまるで嵐のあとの水滴のようにキレギレとなってキラキラと輝くのである。なにもスカルラッティだけではない。今日のプログラム全面にわたっていたのはピアニシモの音楽もさることながら、まさしくこの切れ味の良いピアノの水滴音ではなかったのか! このピアニシモとスタッカートの音が微妙に交錯しあった時、それは一体どのような音楽になるのか。本当にそこに存在していなければわからないとはこのことであろう。
 ラフマニノフは華麗と言うよりもむしろ淡白でさえあり、そこには光ではなく全てを通り越してきた後の全てがある。そう、失われた光は取り戻せないけれども、彼の中にはそれらの全てが脳の連続作用としてチェーンのように絡まっているのだ。そう、彼はそれをひとつひとつときほぐしていくように、そして愛しむように彼の瞬間の全てを魅せてくれた。ラフマニノフもスクリャービンも私は初体験的雰囲気の音楽の作りに揺り動かされたが、約30分の休憩後の全てのプログラムがもっとすごかった。聴けば聴くほど、また噛みしめれば噛みしめるほど味が出てくるのであった。アラベスクにおける音の水彩画のような色どり。ここにはゴッホが到達したような世界がある。そしてリストの鍵盤の上を流れていくような音の粒立ち。なんという微妙で静かな世界なことか。
 ショパン。これぞ、まさしく、ホロヴィッツが、いや彼のみが見た「偉大なものは単純」な世界ではなかったか。現代のともすれば音が埋め尽くしてしまうような演奏の全く逆方向に進行していく音楽。ショパンの音楽が、音のひとつひとつの粒立ちに、まるで羽でも生えたかのように軽やかに飛び去っていく。何たる美しさか。マズルカの微妙な伴奏パートのリズム、そして、スケルツオにおけるトリオ部のなんと落ち着いた世界。音楽は無限大に向かって収束するものなのだ。ここには美しさを通り越した何かが存在した。
 ホロヴィッツが示してくれたこと。それは音楽というものは全てピアニシモからメゾフォルテの領域で表現できると言うことだ。こうやって双眼鏡をのぞいていると彼の手の動きが非常によくわかる。やわらかい、そして大きな手である。いつどこにでもすぐ飛んでいけるような大きな手。しかし、彼の表現したことは大きな音でもなければ技術の誇示でもない。まさしく、ピアニシモからメゾフォルテの音楽であった。こうやって見ていると彼はもう当然のことながら手・指は鍵盤と同じ性質のものになっているのであまり気をまわさない。気をまわすのは、その指を鍵盤に押しつける深さ浅さである。ひとつひとつの音全てがまるで異なるのはこの鍵盤を押しつける深さの度合いが全て異なるからではないだろうか!実際の彼の指の動きは、どの鍵盤へという横の動きは一心同体でもうほとんど意識されていない。彼が意識としてもつただ一つのこと、それは鍵盤をどれだけ深く、いや浅くたたくかということなのだ。時にはこすりつける程度に、またある時ははっきりと、その深度が彼の音楽をあらわしている。つまり縦の動き。
 彼の指の横の動きは、それは依然として驚嘆すべきものがいまだあるけれども、それはもうどうでもよいことなのだ。少しばかりのミスタッチなど弾く方も聴く方もどうでもよいことなのだ。私たちが見ているのは、まさしく縦の動きではなかったか。彼はこの動きに全てを尽くす。それがとりもなおさず音の強弱となってあらわれる。彼が行なったのはそのことだったのだ。そして今日はものの見事に成功した。全ての響きは無限大の収束方向へ統一され、幾何学的美しさをもっていたといっても過言ではない。恐ろしく響きの厚さが感じられる演奏だったのだ。 私がピアノ演奏家であったとしたら、あのような形で全てを表現できるであろうか。信じられない。信じることは容易いものではない。私はここに信じるべき演奏をみたといえる。ここにはたしかに音楽と言うものを確信させる何かがあったのだ。
 たまに宙に浮いた手をひらひらと動かしてみせるのは、あれは一種の運動であろう。常に動かしていなければならないのだ。たとえ一秒間の片手の休憩も彼にとっては何か調子を崩す原因になるかもしれないのだ。そして、時たま演奏中ですら左手にハンカチをもってきて口を拭くのはもうどうしようもないことなのだ。また、ふと思ったように目があらぬ方向を向くのもいたしかたのないことなのだ。演奏後、人差し指を高く上げるのは、私がNO.1と言っているのであろうか。また、手首をアメリカ人ならブー(no good)のときにやるように動かして聴衆を笑わせるのは一種の癖であろう。まるで、今日の演奏もまた私の数あるなかのひとつだよ、とでも言いたげに。現にあの元気さだったらこれからも何度もコンサートにでられるのではないか。
 とにかく私はまたしても教えられてしまったみたいだ。この貴重な演奏体験は頭の裏側に刻み込まなければならない。音楽とはピアニシモから発生するのだ!

(注)雪の積もるなかチケットを買うために並んだ。わりと唐突なノーティスであったためとにかく並んだのだが、少したったところで前の列の方からざわめきが伝わってきた。今日の発売チケットはキャッシュ・オンリーらしい。カードが使えない。このマンハッタンで!オーマイガッ。近くのジンジャーマンだったら3ドルのウィスキー一杯だってカードで払っている連中さえいるこの島で。私は恐る恐る財布をのぞいてみた。33ドルあった。周りの人に、お金貸して、とも言えず15ドル席を2枚買った。プラチナチケットではなかったが、当日までにはかなりの値がついたようだった。今日の15ドル席は普段はメトのファミリーサークル席であり、並んだ甲斐がありオペラの定席よりずいぶん前を取ることができ見晴らしもよかった。アンビリーバボな演奏であったことはたしか。日本では、どなたかがひび割れた骨董などと言っていた。評論の全文は読んでいないけれども、日常の音楽シーンに浸っていない垂直的な発言になんともいえない違和感を持ったものだ。ひび割れていない新品が欲しいなら数あるソフトから選べばいい。演奏結果だけをいいたいのならもう1000回多く聴いておくべき。始まる前の生ライブからコンサートは選べない。評論家として音楽愛好者として何を言いたかったのだろうか。
(「ひびわれた骨董」、「cracked antique」についてはまた別途)

New York Times, Monday, December, 15,1986
Recital: Horowitz Plays Mozart, Chopin and Liszt
By Bernard Holland
VLADIMIR HOROWITZ was back at the Metropolitan-Opera house yesterday afternoon - peeking out shyly from the wings, wiggling his fingers in greeting, mugging gently for the first few rows, rubbing his hands in vigorous anticipation. Mr.Horowitz made sure we knew this was no ordinary concert even before the first note was played.
 The 82-year old pianist seems in the midst of rebirth. After a long withdrawal from the stage and shaky return to it, there has been a real flowering to his career this past year, one that has included triumphal European tours and a number of new records. Word has it that early in the new year Mr.Horowitz will be off once again - to Milan to record Liszt and Mozart piano concertos with Carlo Maria Giulini and players from La Scala. The young Horowitz recorded very few concertos. In his advancing years, ambition seems to be growing.
 Given Mr.Horowitz’s lifelong reputation for explosive pianism - grand moments purveyed with maximum of excitement - yesterday’s program was almost as fascinating as the playing itself. Roughly half its music was small in scale and modest in technical demands. The Chopin B-minor Mazurka and the Mozart pieces ? the M-minor Adagio, the Rondo in D, the Sonata in C(K.330) - have been met and conquered by teen-agers only halfway serious in the study of the instrument.
 Is Mr.Horowitz playing such simple music because he has to - somehow to nurse a failing physical ability? One came away from the Met yesterday thinking not - that rather the ”smallness” of this repertory represented less a weakening technique than a new conduit for the old talent. Music awaits a truly thoughtful study of performers past 7- years of age; when it comes, I think it will agree that power does not necessarily diminish with age but simply changes its shape.

 Thus the opening Scarlatti and Mozart pieces spoke almost in whispers - just as the Schumann “Arabesque” and Liszt’s “Valse Oubliee” were eerily subdued. Their power, however, was considerable, but transformed, drained of any old brutalities or arrogance and couched in terms of great calmness. It is odd how a whole generation of young pianists has based its collective style on Horowitzian principles, while probably misunderstanding the nature of this playing.
 For, as yesterday demonstrated, Mr.Horowitz’s technique lies not in its ability to thunder in the bass line of Scriabin’s D-sharp-minor Etude or tootle at incredible speeds through a Moszkowski encore; it is a less-given talent - one that conceives a sound, colors it in mind with the appropriate tint and resonance, and then reproduces it precisely with the movement of a hand on keyboard. It is this amazing gift for using the quality of sound as a metaphor for human speech that sets Mr.Horowitz apart from his admires and imitators, many of whom play more quickly, more loudly and with more right notes than he.
 Once wondered, for example, at the Rachmaninoff Prelude in G, whose substance seemed evasive, shadowy, seductive and yet somehow perfectly clear. Through Liszt’s added filigree in the “Soiree de Vienne” arrangements, Schubert’s wonderful little waltzes shone in all their innocence and inspiration. When Mr.Horowitz had pianistic troubles, they were usually in Mozart’s straightforward, highly exposed scale passages.
Juilliard students could have played these figures in their sleep, but who among us could replicate the warm conversational tone of the Rond’s staccato passages or make ears deadened by two centuries of deceptive cadences accept the one at the end of this piece with total surprise?

Throughout, one felt mor spontaneity than deliberation - the third of Schubert’s “Moments Musicaux” (his first encore) sounded almost like an interpretation thinking on its feet. How totally different was this crisp separation of notes from the smooth and totally different version of the same piece recorded for Deutsche Grammophon engineers a few month ago.
 This is another reason that yesterday’s large, quietly enthusiastic audience had to congratulate itself. Each added chance to experience Mr.Horowitz’s special set of gifts is a gift in itself, but there is also the setting - the positioning that allows listeners to catch random thoughts on the fly. Horowitz on records is deceptive, being rarely a summation of an artist’s beliefs but rather the captured moments of one of music’s greatest free-associators.