河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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2628- ブルックナー9番、テ・デウム、新国立劇場合唱団、上岡敏之、新日フィル、2018.10.27

2018-10-27 23:32:42 | コンサート

2018年10月27日(土) 2:00pm サントリー

ブルックナー 交響曲第9番ニ短調WAB109 (ハース/オーレル版)  25-11-24

(連続演奏)
ブルックナー テ・デウム ハ長調WAB45  23

ソプラノ、山口清子
アルト、清水華澄
テノール、与儀巧
バス、原田圭
合唱、新国立劇場合唱団

上岡敏之 指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団


AB9 + Te Deum duration
Ⅰ P3-3-3-3-7-0-2-2-C2
Ⅱ 4-3-4
Ⅲ 4-4-5-5-4-C2
Te Deum 23

上岡NJPがブルックナー9番シンフォニーにテ・デウムを連続演奏するというまことに香ばしいプログラム・ビルディングでアタック。
色々と考えあぐねた末のプログラムと思われますので、まずはそれを正面から満喫する。

見事な造形美。上岡特有のレガート奏法、主題の節目は殊更境目をつけない。というよりも滑らかにつなげるアプローチ。3主題がシームレスに見えるかと思いきや、まったくそんなことはない。とろけるような推移に、この際立つ造形バランス。凄いもんだ。
第1楽章の頭は序奏から第1主題というよりも序奏含めて第1主題と思わせるような流れであり、自分の気持ちとしてもスッキリとする。これで初めてデカい第2主題と対等なバランス構成となる。上岡はそのような演奏で魅せてくれた。見事ですね。
同楽章、溶解する展開部から再現部。再現部は第2主題から始まるとすると、その直前、展開部の締めくくりに大きくゲネラル・パウゼしたあとの、超絶ピアニシモによる弦の下降音型スローモーション。ゆっくりと下降していくその姿は、なにか、リゲティでも聴いているような錯覚に陥る。そして、再現部の第1主題をこれで補完しているようにも聴こえる。見事な構成美と言わざるをえない。
第3楽章の2回目の副主題にあらわれるオーボエ3本の混濁のような引き伸ばし、そして、またもや、ゲネラル・パウゼ。この緊張感あふれる空白で、調は脳内で切り替わり、静謐なコーダに向かう準備が出来上がる。
どれもこれも見事なもので、有無を言わせぬ説得力で、シンフォニックな醍醐味を満喫できる。上岡の造形の構築はおそろしいばかりにポイントをついている。

ブルックナーサウンドとしては、高弦の切れ込みはもっともっと欲しいところが特に第3楽章に多々あるけれども、ただ、全般に8本のベースがそもそも比較的軽めというか、流れよりも律動のほうを少し強調しているところがあって、それらはテ・デウムへの布石のようにも、あとで考えると思ったりする。それに、序奏の弾き始めと相似美弱音の、先ほどの第1楽章の超絶ピアニシモによる弦の下降音型スローモーションの限界弾きは、切込みや厚みをむしろ避けていたからこそできるような気配もある。造形の見事さはフォルムだけでなくこのような音圧や律動バランスへの配慮にまで行き届いていると見たほうがいいものだろう。

各主題のあとに頻発する経過句はあまりに濃すぎて、なにやら別の主題がヴェールを脱ぎ始めたような趣きなのだけれども、この濃さは次の主題の予兆をはっきりと感じさせてくれるので噛み締めて次を待てる。待つ準備が脳内にしっかりと湧き立つ。こういった面白みもブルックナーでは一段と大きい。先の事を考えるよう、脳に作用している。天国的な長さのブルックナーではあるがひとつ先を行くといったあたりのことを色々と思わせてくれる。

音響の馴染み。
スケルツォ、トリオの響きはもの凄くさまになるもので、経験則的な響きの安定感を感じる。個々人の技量に加え、総体としての蓄積ナレッジの引き出し、そういったあたりのこともフツフツと。指揮者、プレイヤー、ともにこの音響を以前から理解していた、そんな感じですね。スケルツォは縦型直方体音響がそびえ立ち、トリオの入念さは他楽章同様緊張感あふれる。マルティプルな音色の色合いがこここらあたりから次のアダージョに向けて滲み出す。
ブラスセクションにトラが多かったけれども、それはそれとして、わざとずらしてるんじゃないかなどと邪推したくなる。


絵を描くとき、ちっぽけな一つの部分から書き始める。最終的に全体が出来上がり、観るほうはその出来上がった全体像をいっぺんに見渡すことが出来る。
音楽作品から時間軸を取り払ったら、もしかして、最終音がやんだ時、序奏の頭からこの最終音まで全て一気に見渡す、聴き渡すことができるんじゃないんだろうか。
フォルムの見事さというのはその時初めてよく理解できる透明物体のようなものかもしれない。時折、絵のように見えてくるのよ。聴こえてくるのよ。昔から不思議だったけどね。
画家は絵を描くとき、その初めから最終形が見えているのだろう、上岡タクトにも同じようなアトモスフィアがありましたね。

ということで、このやにっこいニ短調シンフォニーは、ベートーヴェンの第九と似てると言えば似てる。どうもニ短調の曲というのは吹っ切れないやにっこさを他作品でも色々と感じるところがあって、たまに、ちょっと引いたりするのだが、まあ巨大さに最終的にはそういったところは払しょくされる。
第九と同じようにスケルツォを第2楽章にもってきたブルックナー8番9番。これがもし、9番のスケルツォが7番までと同様3楽章の配置にあったなら、誰かれなくみんな、終楽章コンプリートヴァージョンをもっともっと前から創作していただろうなあ、などとあらぬ思いに走る。

テ・デウムには、ソナタ3主題も無いし、もしかすると8番より巨大になっていたかもしれないコーダの主題回帰、轟く様なマルチ主題同時進行の伽藍構築物がヴェールを脱ぐ、そういったスリルとサスペンスも無い。まあ、求めてはいけない。
そんなことは百も承知で敢行した上岡監督であろうからね。プロフェッショナルな味わいを享受する。

終楽章配置のそのテ・デウム。弦の動く8分16分音符の律動はチェック模様のテイストで、それと相対するかのようなコーラスの清らかなロングフレーズ、対比のあやが美しい。さわやかさが漂う。まあ、ハ長調ではある。
ここにきて、上岡のある種、意図のようなものが見えてきた。ソナタは別にして、音響への配慮はテ・デウムとかけ離れたものでは無くて割と通貫するところがあった。
弦が大波小波律動を繰り返し、ウィンドが強めのフレージングを表にさらす。ブラスは小宇宙。合唱とソロが上を流れる。新国立劇場のコーラスは強靭で透明。聖水で心臓が洗われるようだ。
歌を乗せたオーケストラはやや4番シンフォニーのフィナーレ冒頭の律動趣きを感じさせながら、最後は上昇音型に縁どられ天上を見上げる。スバラシイ。
上岡監督が一緒に歌い尽くす振り尽すその姿はピュアなもので、こちらもそのようなものを共同体として納得できましたね。共振のようなものかな。ピュアな気持ちとは。


シンフォニーとテ・デウムの連続演奏。合唱は第2楽章が終わったところで入場。4名のソリストは第3楽章が済んだところで登場。双方ともに聴衆の小拍手は一滴もない静寂なもの。また、テ・デウムが昇天したところで、指揮者が両手で指揮棒をつかみ、頭を抱えたような静止画像のような瞬間は、瞬間越えのロング空白を実現。雑音などたてずにこのまま帰ってしまいたい衝動にかられた。ほとぼりがさめたところでパラパラと始まった拍手とブラボーは10分以上続きました。
素晴らしいい演奏会でした。ありがとうございました。
おわり

以下、翌日の公演
2629- ブルックナー9番、テ・デウム、新国立劇場合唱団、上岡敏之、新日フィル、2018.10.28