河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2582- ベートーヴェンPC1、ヴィルサラーゼ、マンフレッド・シンフォニー、小林研一郎、読響、2018.7.5

2018-07-05 22:59:18 | コンサート

2018年7月5日(木) 7:00-9:10pm サントリー

ベートーヴェン ピアノ協奏曲第1番ハ長調Op.15  17-10-9
 ピアノ、エリソ・ヴィルサラーゼ

Int

チャイコフスキー マンフレッド交響曲Op.58  17-10-13-16+3

小林研一郎 指揮 読売日本交響楽団


両プログラムともに聴きごたえ十分、充実した内容の演奏を満喫。

1時間におよぶ圧倒的な絶演。オーケストラ屈指の名演。
マンフレッドは何物にも変えがたい惚れ惚れする最高峰の演奏。小林の何もかも知り尽くし棒は作品の構築感、造形美、ともにパーフェクトで、あまりの見事なただならぬ表現に唖然。唖然茫然、騒然の気分。
彼の2回目の同作品の演奏に接して、その思いを強くするのみであった。ほぼ全面的にBマイナーが漂うあきらめの下降ラインがかつてこれほど充実し説得力を持ったことがあっただろうか。割と実演に接しているマンフレッド、聴くごとにのめり込む。表面的なけばい美しさを意識して排したような、標題的と言えば言えるのかもしれないが、その深刻度には標題の力を借りずとも、込めた意志の強さを感じさせる。深刻さでこれだけつなげていけるのは構成感のなせる技で、もちろん小林の熟知した透視力があればこそというのもある。

各楽章に副題のついた標題音楽のような趣きが濃厚だが、聴き心地はいつも大体ソナタで。
第1楽章は4番シンフォニー的規模を感じさせるが、序奏の巨大さと主題のスケールが4番の上をいき、後続楽章は軒並み一段と大規模。最初から最後まで吹っ切れないチャイコフスキーとしても異色の作品、最後の3分でさえ悲劇的増幅の締めくくりのようだし。
この終楽章は形が溶解していき標題化に傾斜していく中、偉大な演奏が作品を標題の中に押しとどめることをさせない。

一つ一つのモチーフやテーマがシェイクした後のゆっくりと落ち着いていく液体を見ているようで、細かい振動と大きな揺り動きが余裕をもって空気の隙間を埋めて定位していく。いっぱいいっぱいでは決してない余裕のシェイクと落ち着き。どれもこれも味わい深く奥深い。読響のブラス・セクションの彫の深さがただならぬ共感を示している。柔らかいアタックは作品に馴染んでいて、まるで、小林の棒を引き出しているようにさえ見えるときがある。共感のプレイとはこのようなことを言うのだろう。また。このオーケストラ特有の正三角錐に広がる弦セクション音場は、もはや、音響カタルシス。お互いに耳をそばだてたような線密なアンサンブルは神経が研ぎ澄まされているからで、指揮者を中心点に置いたコンセントレーションの空気振動が目に見えるようだ。
棒を持った右腕一本振りが増えてきた昨今の小林の棒はそれだけで感動的な説得力だ。蓄積の昇華を感じさせてくれますなあ。そして、プレイヤーは全員、自分がすべきことをはっきりとわかっていて、棒を見ての脊髄プレイ。一体化した指揮者とプレイヤーが偉大な作品を偉大な演奏へと導いていく。感動的だ。声にならない幽玄の響きの世界を垣間見せてくれた。世の中には凄い演奏もあるもんだ。もはや、炎の核が見えるようだ。
悶絶の感動演奏。


前半のヴィルサラーゼが弾くベトコン1。ベートーヴェンのピアノの音符が数珠のように繋がっていく。音符のつながりが波のような流れとなる。初楽章はふとワルトシュタインが浮かぶ。音の流れや造りが似ている雰囲気。音符等価性とでも言おうか。
ラルゴはものすごくモーツァルト的、気張らず淡々と弾く中にそこはかとないメランコリー。終楽章は初楽章のベートーヴェンとラルゴのモーツァルトがハイブリッド、微妙に交錯しながら進む。時折見せるティンパニの強打が効果的で、はっと、我にかえる。

見た目、力を抜き切ったように見える芸風、これも蓄積の昇華にほかならない。
結果、そこにベートーヴェンが屹立している。大した演奏でした。
おわり