河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

479- ローゼンカヴァリエ ドレスデン国立歌劇場 2007.11.18

2007-11-22 23:26:00 | オペラ

前日のタンホイザーに続き、この日は、ばらの騎士。

この日は、みなとみらい線で日本大通駅を出て神奈川県民ホールまできました。その模様は昨日のブログに書きました。

今日は、ばらの騎士の初日。

2007年11月18日(日)  3:00~7:30pm 神奈川県民ホール

元帥夫人/アンネ・シュヴァンネヴィルムス
オックス男爵/クルト・リドル
オクタヴィアン/アンネ・ヴォンドゥング
ファニナル/ハンス=ヨアヒム・ケテルセン
ゾフィー/森麻季
マリアンネ/ザビーネ・ブロム
ヴァルザッキ/オリヴァー・リンゲルハーン
アンニーナ/エリーザベト・ヴィルケ

計40名

指揮 ファビオ・ルイジ
演出 ウヴェ=エリック・ラウフェンベルク
ドレスデン国立歌劇場


二人が外から駆け込んではいってくる。
元帥夫人とオクタヴィアンは、狂ったようにズボンを脱ぎ始める。脱ぐのがもどかしいといった風情で愛撫し合い、とるものもとりあえずベッドになだれこむのであった。

こんな感じで、激しく退廃したホフマンスタール台本によるオペラが始まる。
もっとおしとやかな始まりで最初から二人ともベッドにはいってしまっているプロダクションもある。いろいろなプロダクションがあるが、どれも似たり寄ったりだ。
全幕ともにどのようなプロダクションであろうともだいたい筋書きはわかる。台本が良すぎるのか硬直した時代背景が大きいのか、奇抜なプロダクションというのはあまりないし、あったとしてもわずらわしいだけかもしれない。

オクタヴィアンは、いわゆるズボン役なのでいきなりズボンを脱ぎ始めるというのは、私は女よ、といっているわけではなくて、役の上での話なわけだからどうでもいいといえばどうでもいいが、オックス男爵がはいってくるあたりで、今度はメイド女装をするわけだから、話がまもなく混乱を始める。
だから、観る方は、しっかりとオクタヴィアンは女ではなく男として観なければいけない。毎度のことではあるが、こればかりは字幕からだけだと少しわかりづらい。

ここまで、音楽は最初のホルンから、滴り落ちるような弦のめまいまで、素晴らしい響きを醸し出してくれる。
ドレスデン国立歌劇場の音は豊穣ではあるがふやけたところがない。
輪郭がしっかりしており、これはとりもなおさず楽器一つ一つが音に芯があり、また、自分の位置づけはどこにあり、どう奏するべきか、莫大な経験の蓄積があってこその音、そして奏でられるハイレベルのアンサンブルに裏付けられた音であるからこその音楽。
歌劇場管弦楽団としては来日を繰り返しているが、こうやってピットから出てくる音は一味違う。水を得た魚のようだ。


マルシャリンは良くも悪くも完成してしまった人生、自分の手でもはやそれを動かし変えることはない。
オクタヴィアンの人生はこれから。転んだり立ち上がったり本人しだいでどのようにも先を変化させていくことができる。
このような二人がこの先うまくいくはずがない。
マルシャリンはわかっているが、オクタヴィアンにはわからない。いつの世にもある。
人生の黄昏ではなく、これからむかえるであろう黄昏のことを切なく侘びしく、ライトが落ちた薄暗闇の中で静かに歌うアンネ・シュヴァンネヴィルムスのマルシャリン、第1幕後半の落ちた美しさはシュトラウスの圧倒的に美しい音楽とともに、絶品の芸術であった。
退廃の極みと言ってしまえばそれまで。
こんなことは今の我々の現実にはありえないようなストーリー(なかにはある人もいるかも)ではあるが、それとこの音楽に心を動かされるというのは別のことなのか。
現実感がなければないほど潜在化した願望が大きくそこでかなっているということなのかしら。
何回観てももう一度観たい、オペラハウスの来日公演の同演目は全部観たい、という人たちの気持ちはよくわかる。5時間の現実逃避。なにを言われようが、とにかくこれが先なんだ。


マルシャリンの従兄のオックス男爵は、とにかく若くてかわいい女性には目がない。
いやといわれても一度ベッドをともにすれば考えが変わる、いやといわれた方が明日への活力の源になる、などと今ならセクハラ、人権侵害で訴えられてもおかしくないストーリー展開なのだが、過去の芸術品である、そして結末を知っている、わけだからこれらも含めて楽しめば良い。
オックス男爵を憎みきれないのは、男はみんなこのような感情をもっている動物であるから心ならずも(?)共感してしまうし、まぁ、良いではないか。
オックス男爵が色目を使ったオクタヴィアンはメイド女装をした男なのであり、ズボン役のアンネ・ヴォンドゥングは、肩の張り具合などその辺の微妙な感じをうまくだしていたようだ。
オックス男爵のクルト・リドルは権力を背負った感じがなく、威圧感はないが、男の機微をこれまた絶妙に表現していた。


第2幕で、ゾフィーとタイトルロールになりバラをもったオクタヴィアンがあうことになるが、その前に、侍女マリアンネ役のザビーネ・ブロムの声量が大きすぎて、せっかくのゾフィー役この日、日本国を代表して歌った森麻季の歌が最初からかすんでしまったのだ。
ここにたどり着くまでに何年もかかっただろうに、ブロムには遠慮というものがないのか。
聴衆はブロムに反応してしまい、ちょっと想定外の事態ではあった。
しかし、ゾフィーとオクタヴィアンの目が合い、瞬間、調が変わる絶妙のシュトラウスの音楽にもかかわらず、お互いの気持ちの変化(あっ、この人だ、私が探していた人は、という感覚)が聴衆にうまく伝わらなかったにもかかわらず、森は細くも美しい高音を見事に披露することができたのは日ごろの努力と経験があったからなのだろう。

ただ、ゾフィーの衣装であるが、どうも少女っぽい。
日本の昔の白黒写真のころの少女衣裳なのだ。あれは失敗。演出のウヴェ=エリック・ラウフェンベルクのせいではなく、衣装のジェシカ・カーゲのせいかもしれない。かなりの違和感。
違和感と言えば、こちらは演出の方のせいなのだろうが、第1幕で観光客がはいってきてフラッシュをたく、第2、3幕でプレス(新聞記者)が大勢あらわれこれまたフラッシュの小嵐。この演出はなにを意味するのか。この部分だけ浮き出ていてとってつけたような感じ。成功とはいえない。

森は低音の方が少し弱く、また、声の強さが一様でない箇所があり、また、張り切り過ぎということもあろうが、圧倒的にキュートなゾフィーとまではいかなかった。
ともあれ、第3幕終場の3重唱、2重唱まで持ちこたえたのは評価できる。


指揮のファビオ・ルイジは劇場都合による代振りということだが、音楽監督が代振りというのも奇妙な話だ。普通だったら振って当然だと思うのだけれども。
なにやら不機嫌そうな感じのルイジであったが、ピットが暗くなってしまえば全ては闇の中だ。
音楽全体の印象としては、線が太く豊かな響きというよりも、スタイリッシュで明確な輪郭、縁取りをとっていくタイプのようだ。昔は、オペラアリアの夕べの伴奏指揮などもしていて、道を踏みはずすこともなくキャリアを積んできたのだろう。これからどのように変化していくのだろうか。
おわり