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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

『淵鑑類函』巻50 「帝王部 体仁」を読んで

2016年12月23日 | 東洋史
 「仁とは~である(する)ことである」「~である(する)ことが仁である」といった実例もしくは結果は、いやと言うほど列挙される。しかし「~が仁である」という本質もしくは原因(形相因)は、まったく示されない。橋本萬太郎先生の言葉を借りれば、いいかえは、いたるところにある」が、「『仁』という概念を定義していない」。橋本萬太郎「ことばと民族」(『民族の世界史 5「漢民族と中国社会」山川出版社1983/1所収)、同書138頁。

佐藤正幸 「西洋史学はディシプリンか 母国語による近代化の上に成立した世界的にユニークな学問」から

2016年12月23日 | 抜き書き
『西洋史学』260(2015年)掲載、同誌42-55頁。

 理論は自分がつくるものではなく、「西洋から来るもの」という考えが支配的であったため、自前の歴史理論専門家など必要ないと考えていたようである。基本的にはこの発想が現在でも続いていると言える。
 (「4 日本において歴史学はディシプリンとして扱われているか」 46頁)

王希傑著 修辞学研究会訳 『中国語修辞学』

2016年12月19日 | 人文科学
 出版社による紹介

 面白い。まず文言文と白話文の区別をしないところが面白い。新渡戸稲造の『武士道』を読んでいるかのようである。
 次に、地口の類い(「品詞転換と返源及び蔵語としゃれ」)や、漢字を分解するほかの文字遊び(「拆字と拆語及び釈語と析語」)を、中国語における正規の修辞技法の一つとして数えているところが、面白い。
 さらに、ああいえばこういう式の減らず口や、その場しのぎの言い逃れ(「頓跌と曲説」)も、また無知ゆえのあるいは論点ずらしをするためのわざとな誤用と知ったかぶりのマラプロピズムやデタラメ(「擬誤と存誤」「象嵌と偏取」)も、立派な修辞技法だとして数えているところが、とても面白い。
 だが一番おもしろいのは、弁証法を学ぶことが言語学ひいては修辞学を学ぶうえで最も大切と総括しているところだ(「結語 修辞学と弁証法」)。

(好文出版 2016年3月)

石濱裕美子 『ダライ・ラマと転生 チベットの「生まれ変わり」の謎を解く』

2016年12月19日 | 人文科学
 チベット仏教界では、「生まれ変わり」も、「意識の構造」についても論理的・体験的に決着がついている。『転生の根拠を示してしてください』とダライ・ラマに問えば、インドの論理学者ダルマ・キールティ(7世紀)の論理に基づいて、輪廻の実在を論理的に証明してくれるであろう。 (「第1章 中国に滅ぼされた観音菩薩の国」  本書24頁)

 ダルマ・キールティの論理(学)は無謬なのであるか。 よしんばそうであるとしても(私にはそうは思えないが)、人間の「論理」とは彼の(あるいは広く取ってインド仏教論理学の)論理だけなのか? 誰がいつどこでいかにしてそれを証明したのか。もしこれが証明できていなければ、それは、著者がその4頁まえでチベット仏教の特質として論じた、「『偉い人がそういうから』『経典にそうかいてあるから』などと思考停止して仏の教えを信じるのではなく、仏の教えとされるものであっても、論理によって徹底的に吟味してその結果、真理であるもののみを奉じ」るという、「チベット仏教の論理的な性格」は、主張としてなりたたないのではないか。

(扶桑社 2016年9月)

長谷川順二 『前漢期黄河古河道の復元 リモートセンシングと歴史学』

2016年12月15日 | 東洋史
 分野としては、「歴史地理学」ということになるのだろうか。文中提出されるおびただしい計測(RS)データと、これもまたおびただしい量の文献史料。その紹介される範囲は、本書題名の掲げる前漢時代のそれに止まらない。
 著者は、後者の記述内容を主とし、前者をそれを検証すべき補助的な手段として位置づけている。デジタル化された膨大な後者文献史料を、字あるいは句で検索する手法なくしてはなりたたなかった研究だと思わされる。そして史料の読みについても、4(あるいは5)W1Hを拾えばそれで十分、つまり「大意が解ればいい」という、従来の漢籍読解とは異なる新しい手法が、ここでは前提とされている。そしてそれで十分な研究分野であり対象である。
 そのアプローチの体系だった一端であろうか、引用される漢文はすべて、章末の注に一括して挙げられるのだが、それらは原文のみで、訓読はもとより現代日本語訳すら添えられない。

(六一書房 2016年2月) 

與那覇潤 『翻訳の政治学 近代東アジアの形成と日琉関係の変容』

2016年12月14日 | 哲学
 題名の“翻訳”は、一般の意味における翻訳ではなかった。少なくとも翻訳者の営みではなく、関わりもほとんどない。

 参考:「中国化」の正体は、挙証責任を他へ丸投げする翻訳主義だったというオチ(『翻訳の政治学 - 近代東アジア世界の形成と日琉関係の形成』) 『仕事の日記』

(岩波書店 2009年12月)

中原一博 『チベットの焼身抗議 太陽を取り戻すために』

2016年12月14日 | 地域研究
 出版社による紹介その他

 一言でいえばやはり、焼身行為は抗議ということになるのだろうか。だがこの中で紹介される個々の例を観ると、私個人としては、証言や遺書などに残された焼身者の事情や心理にもう少しの陰翳を感じるのだけれど、どうだろう。

(集広舎 2015年9月)

文心雕龍 : 卷十 : 才略 - 中國哲學書電子化計劃

2016年12月06日 | 東洋史
 http://ctext.org/wenxin-diaolong/cai-lve/zh

 「才略」(文中では「才」)、すなわち詩文の才能とは何かが、最後までわからない。説明されないからだ。優れた作品の優れた(と筆者の判断する)所以を述べても、それは作品の作者のもつ「才」のもたらした結果であって、「才」そのものの属性ではない。