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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

王希傑著 修辞学研究会訳 『中国語修辞学』

2016年12月19日 | 人文科学
 出版社による紹介

 面白い。まず文言文と白話文の区別をしないところが面白い。新渡戸稲造の『武士道』を読んでいるかのようである。
 次に、地口の類い(「品詞転換と返源及び蔵語としゃれ」)や、漢字を分解するほかの文字遊び(「拆字と拆語及び釈語と析語」)を、中国語における正規の修辞技法の一つとして数えているところが、面白い。
 さらに、ああいえばこういう式の減らず口や、その場しのぎの言い逃れ(「頓跌と曲説」)も、また無知ゆえのあるいは論点ずらしをするためのわざとな誤用と知ったかぶりのマラプロピズムやデタラメ(「擬誤と存誤」「象嵌と偏取」)も、立派な修辞技法だとして数えているところが、とても面白い。
 だが一番おもしろいのは、弁証法を学ぶことが言語学ひいては修辞学を学ぶうえで最も大切と総括しているところだ(「結語 修辞学と弁証法」)。

(好文出版 2016年3月)

石濱裕美子 『ダライ・ラマと転生 チベットの「生まれ変わり」の謎を解く』

2016年12月19日 | 人文科学
 チベット仏教界では、「生まれ変わり」も、「意識の構造」についても論理的・体験的に決着がついている。『転生の根拠を示してしてください』とダライ・ラマに問えば、インドの論理学者ダルマ・キールティ(7世紀)の論理に基づいて、輪廻の実在を論理的に証明してくれるであろう。 (「第1章 中国に滅ぼされた観音菩薩の国」  本書24頁)

 ダルマ・キールティの論理(学)は無謬なのであるか。 よしんばそうであるとしても(私にはそうは思えないが)、人間の「論理」とは彼の(あるいは広く取ってインド仏教論理学の)論理だけなのか? 誰がいつどこでいかにしてそれを証明したのか。もしこれが証明できていなければ、それは、著者がその4頁まえでチベット仏教の特質として論じた、「『偉い人がそういうから』『経典にそうかいてあるから』などと思考停止して仏の教えを信じるのではなく、仏の教えとされるものであっても、論理によって徹底的に吟味してその結果、真理であるもののみを奉じ」るという、「チベット仏教の論理的な性格」は、主張としてなりたたないのではないか。

(扶桑社 2016年9月)