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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

Zou Yan (鄒衍)- Wikipedia を読んで

2016年12月03日 | 東洋史
 https://en.wikipedia.org/wiki/Zou_Yan

 Zou Yanは、鄒衍、あるいは騶衍、のこと。
 文中、『史記』巻74「孟子荀卿列伝」にある“通谷”をconnecting valleysと訳してあって、これで一気にまともに相手をする気が失せた。

 騶衍睹有國者益淫侈,不能尚德,若大雅整之於身,施及黎庶矣。乃深觀陰陽消息而作怪迂之變,終始、大聖之篇十餘萬言。其語閎大不經,必先驗小物,推而大之,至於無垠。先序今以上至黃帝,學者所共術,大并世盛衰,因載其禨祥度制,推而遠之,至天地未生,窈冥不可考而原也。先列中國名山大川,通谷禽獸,水土所殖,物類所珍,因而推之,及海外人之所不能睹。稱引天地剖判以來,五德轉移,治各有宜,而符應若茲。以為儒者所謂中國者,於天下乃八十一分居其一分耳。中國名曰赤縣神州。赤縣神州內自有九州,禹之序九州是也,不得為州數。中國外如赤縣神州者九,乃所謂九州也。於是有裨海環之,人民禽獸莫能相通者,如一區中者,乃為一州。如此者九,乃有大瀛海環其外,天地之際焉。其術皆此類也。然要其歸,必止乎仁義節儉,君臣上下六親之施,始也濫耳。王公大人初見其術,懼然顧化,其後不能行之。 (テキストは『中國哲學書電子化計劃』による。下線は引用者)

 「名山大川」ときて「通谷」とくれば、名山(高い山)、大川(幅広い河)、通谷(険しくて深い谷)だろう。その物の規模と程度の話なのだから。それより重要なのは、山・川・谷という自然の景観・地理と、生物である禽獣とを並列していることだ。名山大川と通谷禽獣とが対句に、さらには通谷と禽獣とが連なって、一句を為している。名山と通谷はよいとして、大川と禽獣が照応している。いささか奇異な感を抱く。そうは思わないか、諸姉諸兄。

杜牧「江南春」の“多少”の語について

2016年12月03日 | 思考の断片
 杜牧  江南春

 千里鶯啼綠映紅
 水村山郭酒旗風
 南朝四百八十寺
 多少樓臺煙雨中


 この絶句をいま白文で卒然と読んで、最後の“多少”は疑問詞ではないのかと疑った。
 高校で習った以来の訓読では、「多少の楼台煙雨の中(うち)」、すなわち平叙文として、「多少」を「多くの」という意味に取っている。
 そこで、先日購って積読にしていた松浦友久・植木久行両先生編注の『杜牧詩選』(岩波書店 2004年11月)をさてこそと披いてみた。
 「江南春」は劈頭の第一首である。同首のくだんの第四句結句は、「多少の楼台煙雨の中」と、訓読こそ同じながら、現代日本語訳では、「どれほどの数の楼台がおぼろに霞んでいることか」と、疑問文に解してある。ただしその後の語釈では、この「多少」について、

 疑問詞『どれくらいの』が基本義であるが、ここでは派生義としての『多くの』のニュアンスをあわせもつ。

 とあって、そうかと教えられた次第。少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。