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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

久保朝孝編 『王朝女流日記を学ぶ人のために』

2016年12月05日 | 文学
 テキストを読むという、その方法論を学ぶために。できればテキスト作者の性差によるその差異の有無も含めて確認したかった。結果としては、これは学ぶべきだというところと、それはどうかという部分とがあり。「なるほど、そうやって、そこまでやる、やれるのか」という部分と、「それは客観的に裏付けできない、ちょっと主観的にすぎないか」と思わされる部分と。性差による方法論の違いはなさそう。というより、このアプローチでは差は出てこないだろう。性差を想定していないやりかたである。それともあるいは、分析の対象が女性であることを前提としたうえでの方法論なのかもしれない。ではこれで『土佐日記』を、どう捌くだろうか。興味がある。

(社会思想社 1996年8月)

杜牧  「隋宮春」

2016年12月05日 | 文学
 龍舟東下事成空
 蔓草萋萋滿故宮
 亡國亡家爲顏色
 露桃猶自恨春風

 第三句転句の顔色は、(美しい)容貌の意味だが、これは美女の比喩だと解釈する向きがある。本当だろうか? 比喩だとすると隠喩もしくは提喩になるが、どちらか。そもそも比喩と考えないでも「美貌」で通るのだが。だいいち漢語(古代漢語)の転義法に隠喩は措いて提喩synecdocheがあるかどうかわからない。すくなくとも私には確信がない。

笈川博一 『古代エジプト 失われた世界の解読』

2016年12月05日 | 東洋史
 出版社による紹介

 古代エジプトの宗教文書に残る伝承や神話が、相互に矛盾する内容のテキストがその内部世界――たとえば『死者の書』――で共存していることについては、私にとり加藤一朗氏の『象形文字入門』(中公新書1962/11初版)を読んで以来の疑問なのだが、笈川氏はこの書で、各地から収集された時点で、すでに提出者にも収集者(いずれも神官)にも、理解できなくなっている古い時代のものが存在し、それらが理解できないままにその通り記録されたのだろうという解釈を、一つの(部分的な)回答として与えておられる。ただ彼らがその結果としての矛盾になぜ平気だったのか(どれかを正本とし残りを削除するあるいは折衷してあらたなテキストを作るということをしなかった)のかについては、これで完全な答えが得られたというわけではない。

(講談社 2014年9月 もと中央公論社 1990年8月)

深谷さんの『東アジアの法文明圏の中の日本史』と「史論史学」(2013年1月24日) 『保立道久の研究雑記』

2016年12月05日 | 日本史
 http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-112e.html

 CiNiiが動かなかった(12月3日―12月4日にかけて)ので、Googleで同書の書評を探したところ、氏のこの文章に出会った。以下部分を引用。

 とくに私にとって、今でも外せない論点は、あの頃の深谷さんが、峰岸純夫氏の議論をうけて、「東アジアの共通分母」、東アジアの社会構成における共通性としての『地主制』という議論を展開したことである。
 しかし、この論点を深谷さんは封印されたらしい。去年、峰岸さんの著書の書評をした時、記憶にのこっていた文章を、深谷さんの著作集で確認しようとしたが、深谷さんの「地主制」論は、以前の著作でも、今回の著作集でも削除されていることを知った。もちろん、今回の『東アジアの法文明圏の中の日本史』でも「東アジアの共通分母」という問題意識が中心的なものとして維持されていることはよく分かるが、しかし、深谷さんは、本書でも「地主制」論にふれることはない。今度、久しぶりに御会いする機会もあるので、この点、今はどう御考えなのかを聞いてみようと思う。