http://ctext.org/wenxin-diaolong/quan-fu/zh
賦者,鋪也,鋪采攡文,體物寫志也。
とあって、つい笑ってしまった。「賦とは鋪(なら)ぶる也」とはよく言ったものである。彩(あや)を鋪べ文(ぶん)を攡(つら)ね、物を体(かたど)り志を写す也。
つまりそれは理屈を述べるためのものではないといっているのである。この世の事物(おもに物だが)を描写し、おのれの感慨を陳べるものであると。それは、モノとココロのひたすらの羅列といってもいいかもしれない。そこでは叙述が秩序だっていることすら理屈のはからいだとして必要とされないのではないか。現実の作品を見ているとどうもそう思えてならない。この“理屈”がどういうものであるかは、また別の問題となる。
賦者,鋪也,鋪采攡文,體物寫志也。
とあって、つい笑ってしまった。「賦とは鋪(なら)ぶる也」とはよく言ったものである。彩(あや)を鋪べ文(ぶん)を攡(つら)ね、物を体(かたど)り志を写す也。
つまりそれは理屈を述べるためのものではないといっているのである。この世の事物(おもに物だが)を描写し、おのれの感慨を陳べるものであると。それは、モノとココロのひたすらの羅列といってもいいかもしれない。そこでは叙述が秩序だっていることすら理屈のはからいだとして必要とされないのではないか。現実の作品を見ているとどうもそう思えてならない。この“理屈”がどういうものであるかは、また別の問題となる。