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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

韓愈 「柳州羅池廟碑」

2013年11月14日 | 文学
 (『維基文庫』にテキストあり)

 文中の「辞」で、「兮」が使われている。碑文だから散文とは異なり、韻も踏むし、駢文ほどではないにせよ美文であることに変わりはないのだから、おかしくはないといえばおかしくはないのだが。「・・・自今兮欽於世世(今より世々に欽まん)」。ちなみにこの文章は、その由来を述べる部分と、最後の「辞」(言うなれば碑文の本体部分)から成っている。
 有朋堂漢文文庫『唐宋八大家文』の注釈を担当した著者岡田正之氏は、最後の「秔稌充羨兮蛇蛟結蟠我民報事兮無怠其始自今兮欽於世世」を、「秔稌充羨兮蛇蛟結蟠。我民報事兮無怠。其始自今兮欽於世世(其れ今より始めて世々に欽まん)。」と句読を切っておられる。だが、それではその前の「秔稌充羨兮蛇蛟結蟠」が四字兮四字型であるのに四字兮二字になって、対句にならないとはいわないまでも、釣り合いと調子が取れなくなって行文のリズムが崩れる。
 ここは、たとえば、上に挙げた維基文庫におけるそれがそうなっているように、「我民報事兮無怠其始。自今兮欽於世世。」と切るべきではなかろうか。
 ただその場合、「自今兮欽於世世」の据わりが悪くなるのと(二字兮四字の文型は碑文中皆無)、あと「無怠其始」の意味が、少なくとも私には、よく判らなくなる。「其の始めを怠らざれ」では、それ以後は怠ってもいいのかということになってしまうだろう。だから続けて「自今兮欽於世世」とあるのだと言えばそれまでだが。
 だがもしそうならば、「自今兮欽於世世」の訓読(というより解釈)は、「今より世々に欽(つつし)まん」ではなく「今より世々に欽めよ」のほうがよくはないか。主語あるいは呼びかける相手を「我民」と取ってだ。

 全文、長くもないので以下に掲げておく。博雅の士の御教示を賜れれば幸甚である。

羅池廟者,故刺史柳侯廟也。柳侯為州,不鄙夷其民,動以禮法。三年,民各自矜奮曰:「茲土雖遠京師,吾等亦天氓,今天幸惠仁侯,若不化服,我則。」

於是老幼相教語,莫違侯令。凡有所為於其鄉閭及於其家,皆曰:「吾侯聞之,得無不可於意否?」莫不忖度而後從事。凡令之期,民勸趨之,無有後先,必以其時。於是民業有經,公無負租,流逋四歸,樂生興事。宅有新屋,步有新船,池園潔修,豬牛鴨雞,肥大蕃息。子嚴父詔,婦順夫指,嫁娶葬送,各有條法,出相弟長,入相慈孝。先時,民貧以男女相質,久不得贖,盡沒為隸。我侯之至,案國之故,以傭除本,悉奪歸之。大修孔子廟。城郭巷道,皆治使端正,樹以名木。柳民既皆喜。

常於其部將魏忠、謝寧、歐陽翼飲酒驛亭,謂曰:「吾棄於時,而寄於此,與若等好也。明年,吾將死,死而為神。後三年,為廟祀我。」及期而死。三年孟秋辛卯,侯降於州之後堂,歐陽翼等見而拜之。其夕,夢翼而告之曰:「館我於羅池。」其月景辰,廟成大祭,過客李儀醉酒,慢侮堂上,得疾,扶出廟門即死。明年春,魏忠、歐陽翼使謝寧來京師,請書其事於石。餘謂柳侯生能澤其民,死能驚動禍福之,以食其土,可謂靈也已。作《迎享送神詩》遺柳民,伸歌以祀焉,而並刻之。

柳侯,河東人,諱宗元,字子厚。賢而有文章。嚐位於朝,光顯矣,已而擯不用。其辭曰:

荔子丹兮蕉黃。雜肴蔬兮進侯堂。侯之船兮兩旗。度中流兮風泊之。待侯不來兮不知我悲。侯乘駒兮入廟。慰我民兮不嚬以笑。鵝之山兮柳之水。桂樹團團兮白石齒齒。侯朝出遊兮暮來歸。春與猿吟兮秋鶴與飛。北方之人兮為侯是非。千秋萬歲兮侯無我違。福我兮壽我。驅鬼兮山之左。下無苦濕兮高無幹。秔稌充羨兮蛇蛟結蟠。我民報事兮無怠其始。自今兮欽於世世。

程映虹 「文化大革命的理論根源是“宇宙終極真理” 」

2013年11月13日 | 地域研究
 〈「右派網」2013-11-11 05:15:40

  毛主義對宇宙論的討論構成了文化大革命意識形態的一個非常重要的部分,甚至可以說是從一個最終極的意義上--即文化大革命符合宇宙的基本規律。
 
 梁啓超の「論君政民政相嬗之理」を想い起こさせる一節である。

  大地之事事物物,皆由簡而進于繁,由質而進于文,由惡而進于善,有定一之等,有定一之時,如地質學各層之石,其位次不能凌亂也。今謂當中土多君之世,而國已有民政,既有民政,而旋复退而為君政,此于公理不順,明于几何之學者,必能辨之。

(日本語訳)
 大地のあらゆる事物はみな単純から複雑へ、素樸から文明へ、悪から善へと進化し、地質学でいう各層の岩石と同じように、一定の段階、一定の時期があって、その順序を乱すことはできない。中国は多君の世であるのに、国家はすでに民主政治が行われているとか、すでに民主政治が行われているのに突然君主政治にもどるとかいうことは、公理に合っていない。幾何学に通じたものならきっとこの道理がわかるだろう。 (伊東昭雄訳、西順蔵編『原典中国近代思想史』第二冊、岩波書店1977年4月、「君主政治より民主政治への推移の道理について」、同書203頁。下線は引用者)

 社会規範と自然法則とが、或いは後者を支える形式論理とが混同されている。

田中加代 『広瀬淡窓の研究』

2013年11月12日 | 日本史
 「四 教育制度論と咸宜園教育」にある咸宜園の教育カリキュラムを見てみると、漢籍で暗記を必須とされたのは『蒙求』と『十八史略』だけで、あとは素読と講義のみである(四書五経とその注釈)。面白いことに『荘子』『菅子』『墨子』まで講義されている(343頁)。驚くべき事にここでは数学や天文学、医学まで教えていた。医学は広瀬自身がもと医者志望だったから解らないでもないけれども、それにしても儒学塾としては異端である。大村益次郎が適塾に往く前に咸宜園で学んでいたことは知っていたが、そういうことだったかと納得。高野長英も此処に籍を置いていた由(ただしこれについては異説もあるとのこと)。

 11月13日追記。

 1. 広瀬淡窓の敬天論は、因果応報(天命)といった天人感応説に近いところもあれば(ただし淡窓は災異だけに感応の対象を限った漢儒の説を狭隘なものとして批判している)、一方で天を人格神に近い捉え方をしていたりして(田中加代氏は『書経』の天の観念に基づくものだと言うのだが)、把握しづらい。

 2. ウィキペディア「広瀬淡窓」項に、彼の敬天論につき「朱子学においては『天』と『理』は同じものであるが、淡窓の考える『天』は『理』とは別の存在であり、『理』を理解すれば人間は正しい行いをして暮らすことができる、しかしその『理』を生む『天』は理解することができない、とする」という指摘があった(同項注2)。
 この天と理の認識における分離は、銭大が『十駕斎養新録』で述べたところのものである。広瀬は銭よりも後の人である。広瀬は銭の著を読んだことがあるのかどうか。

(ぺりかん社 1993年2月)

藤岡毅 『ルィセンコ主義はなぜ出現したか―生物学の弁証法化の成果と挫折』

2013年11月12日 | 自然科学
 マルクス主義(就中唯物論的弁証法)即ち社会科学が、生物学(即自然科学)に優越する科学だと見なされたから、そしてその背後にあるのは科学についてのあまりにも実用主義的な理解、と理解する。

 メモ。

  ソ連でルィセンコ派の支配が決定的になった時、特に英国の左翼は、ルィセンコを支持するものと反対するものに分裂した。少なくとも、社会主義ソ連への支持とルィセンコ主義批判とは両立した。しかし、概して日本では、社会主義ソ連を支持するものはルィセンコ主義を支持したし、ルィセンコ主義を強く批判した人に社会主義の支持者はほとんどいなかった。英国には、ソ連を介さなくてもマルクスやエンゲルスの思想についての豊富な知識と理解をもった左翼知識人は多くいたし、遺伝学を支持する多くのマルクス主義〔ママ〕がソ連にいたことも知られていた。しかし、ソ連共産党と政府が発表する公的文書に基づいて社会主義ソ連を理解するほかなかった当時の日本の左翼の中では、マルクス主義の見解=ソ連指導部の見解と解釈する傾向が、英国に比べはるかに強かった。また、マルクス主義の総本山とみなされていたソ連の理論的文献が本格的に日本に紹介されたのが、1930年のソ連哲学の転換、ミーチン哲学の台頭前後であったことを考えると、日本のマルクス主義陣営は、その後どのグループに属したかどうかにかかわらず、ミーチン主義的な傾向を共通の根として強くもっていたといえるだろう。そのことが、わが国がどの国にもましてルィセンコ主義の影響を強く受ける国となった理由の一つである。
 (「終章」本書222-223頁)

  自然科学に社会主義建設のための実用的価値しか見いださなかったミーチン (「第2章 文化革命下の哲学・遺伝学論争」本書107頁)

(学術出版会 2010年9月)

室鳩巣 『六諭衍義大意』

2013年11月11日 | 東洋史
 『日本思想大系』59「近世町人思想」所収、中村幸彦校注、同書365-376頁。

 この『六諭衍義大意』のもととなった『六諭衍義』は、琉球の文人・政治家程順則が中国から琉球へと持ち帰り、ついで薩摩藩経由で幕府へ進上されたものである。時の将軍吉宗が室に命じて日本語訳させた。日本ではこの書はのち、維新後『教育勅語』に至るまで影響を及ぼすが、元々もたらされた琉球では、形を変えて蔡温の『御教条』の重要な構成要素になった。
 この書と沖縄との関係について、とても興味深いのは、いわゆる琉球の五偉人(麻平衡・向象賢・程順則・蔡温・向有恒)のうち程・蔡と、その二人までが成立の背景とその後とに関わっていることである。蔡は、おのれの推進した琉球の政治改革の過程で『御教条』を編んだ。蔡の政治改革には、彼の政治家としての先輩にあたる向象賢のそれが大きく影を落としているから、間接的には向もここに入るといっていい。だとすれば三人である。

(岩波書店 1975年11月)

清水茂 『唐宋八家文』 全4巻

2013年11月09日 | 東洋史
 「Wikipedia 『唐宋八大家』項」より続く。

 ふと思い立ってしばらくぶりに埃を払ってみた。著者の清水茂氏が「解説」(第1巻)で、私がいま述べたのとほとんど同じ事を仰っておられる。韓愈は古文の文法に拠りながら秦漢以降の文章、駢文を含めたその語彙と表現を、取捨選択し洗練して取り入れたと云々。
 さらに氏の曰く、欧陽脩は韓愈をまねたとはいえ、「その文体にはかなりの差がある」。「韓愈は凝縮されたことばの中に、感情をこめる」。一方の欧陽脩はさにあらず、「自分の意思を納得させるまで、説きつくす。その文はおだやかで、ねばりがある」。
 韓愈については、いま実感として解る。
 欧陽脩については、まだ読み進めていないために現在はわからない。しかし『唐宋八家文読本』ではなく、過去に閲読した同じ著者の『五代史記(新五代史)』に基づいて言うとすれば、清水氏の意見はやや漠然としているかのようでもあるが、私がそこで受けた印象はこれからそう遠くはない。具体的に言えば、韓愈が一語で表すところを欧陽脩は数語に分析するということだ。

(朝日新聞社「中国古典選」 1978年2月-3月)

Wikipedia 「唐宋八大家」項

2013年11月09日 | 東洋史
 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E5%AE%8B%E5%85%AB%E5%A4%A7%E5%AE%B6

 いま沈徳潜(1673-1769)の『唐宋八家文読本』を頭から読んでいるのだが、どうみても韓愈と欧陽脩の文章は語義を含めた語彙、そして表現レベルから違う。司馬遷と班固くらいか、否それ以上の差を感じる。
 前者は824年没、後者は1072年没である。その間2世紀半の隔りがある。考えてみれば同じ古文であるとはいえ両者の文体が異なるのは当然であるのだけれど、私に言わせれば。範を何時の誰(流)に取るかで、語彙文体はおろか時に文法までもが変わってくるし、また、それがよしんば奇跡的に一致しても、250年の歳月は表現者の心性を異なるものにしているだろう。

韓愈 「送孟東野序(孟東野を送る序)」

2013年11月09日 | 文学
 (沈徳潜『唐宋八家文読本』巻四所収)

 文中、以下のようにある。

 樂也者,鬱於中而泄於外也,擇其善鳴者,而假之鳴。金、石、絲、竹、匏、土、革、木八者,物之善鳴者也。維天之於時也亦然,擇其善鳴者而假之鳴;是故以鳥鳴春,以雷鳴夏,以蟲鳴秋,以風鳴冬。

 天は四時万物から己の音を尤もよく出す物を選んで楽器の如く鳴らす。
 韓愈は人もまた然りと言う。

 人聲之精者為言;文辭之於言,又其精也,尤擇其善鳴者而假之鳴。 其在唐虞,咎陶、禹其善鳴者也,而假以鳴。夔弗能以文辭鳴,又自假於韶以鳴。夏之時,五子以其歌鳴。伊尹鳴殷,周公鳴周。凡載於詩書六藝,皆鳴之善者也。

 人の精神も、その人の体をして鳴らしめると。鳴るとは即ち、言葉によってである。人体を楽器に喩える発想を面白く思った。『アクターズ・スタジオ』のインタビューでアル・パチーノが語っていた演技の何たるかに、奇しくも符合していたからだ。「楽器を通して表現している感じだ。」自らの感情や精神をである。音声を含む己の肉体を、手段・道具にしてだ。
 「実生活で取り乱せば地獄を見るが、舞台の上では承知のうえだから平気だ。」
 と、彼は言った。承知の上とはストーリーが決まっているということである。定められた枠内で自らを存分に、また逆説的ながら自由に、表現する。これは俳優だけでなく翻訳者にも通じることではないかと、思いつつ聴いていた。

銭大 『十駕斎養新録』

2013年11月07日 | 東洋史
 面白かった。著者の曾孫慶曾による年譜付き。それによれば銭は26歳のとき梅文鼎の著書に出会い、寝食を忘れて読み耽ったとある。そして暦算(天文および数学)の原理と技術を習得したという(従容布算、得古今推歩之理)(21頁)。
 巻三「天即理」の項で、天即ち理ならば人が天に祷って理に祷らないのは何故かと先ずきつい一発をかまし、ついで『詩経』の「大雅」に「敬天之怒」「敬天之渝」とあるが理は怒ったり変動したりするのかあり得ないと宋儒の思想の基礎を衝いている。理は天則より出ずと言うなら解ると(49頁)。
 この人はどうも宋学がかなり嫌いだったようで、巻十八「清談」では、清談は「心を空虚窈遠の地に馳す」とその中身と根拠のなさを貶したあと、これは清談の話で宋学とは関係がないのに、「昔の清談は老荘を談ず。今の清談は孔孟を談ず」と、顧寧人(炎武)の言葉をわざわざ割注で挿んでいる。さらには彼は王安石の王学も嫌いだったらしく、割注のあと、本文に戻ってまで「亦た清談也」とつづけて書き記している。完全な脱線である(434頁)。

(上海商務印書館1937年版、上海書店出版1983/12復刻)