●戊辰戦争の戦死者は、新政府軍・佐幕軍あわせて1万3145人。うち新政府軍4638人、佐幕軍8507人。
●西南戦争の戦死者は、政府軍・鹿児島軍あわせて1万3000~1万4000人。うち政府軍6936人(『靖国神社忠魂史』)もしくは6843人(『征西記稿』)、鹿児島軍5217人(『丁丑乱概』)もしくは7276人(『西南記伝』)。
●日清戦争の戦没者は1万3249人(陸軍1万2989人、海軍260人)。うち戦死者は1904人(陸軍1717人、海軍187人)、病死者は1万1345人(『靖国神社忠魂史』)。病死者のうち約3分の1にあたる4064人は脚気によるもの。
●日露戦争の戦没者は8万7983人(陸軍8万3941人、海軍4042人)。うち病死者は2万4182人(陸軍2万3822人、海軍360人)、戦没者の約3割(『靖国神社忠魂史』)。死因の第一位は脚気。
●第一次世界大戦の戦没者は1352人(シベリア出兵の戦没者を除く)。うち病死者は247人、全体の18パーセント(『靖国神社忠魂史』)。
●太平洋戦争の戦没者は240万人、うちフィリピン52万人、中国本土46万人、ソ連・満州32万人、パプアニューギニア25万人、中部太平洋諸島25万人、インドシナ半島20万人、沖縄19万人、インドネシア14万人(『定本 太平洋戦争』)。
●日清戦争および日露戦争のことを当時の日本では「征清戦争」「征露戦争」とも呼んでいた。征伐の征である。この二つの戦役(前者は「明治二十七、八年の戦役」、後者は「明治三七、八年の戦役」という呼び方もあった)の宣戦布告の詔勅には「いやしくも国際法にもとらざる限り」もしくは「凡そ国際条規の範囲に於いて一切の手段を尽くし」といった国際法遵守の姿勢を明言した文言が見えるが、大東亜戦争においてはない。
“日清・日露の戦争のときは、国際世論を味方につけようと懸命だったのに、今度は国際世論が味方につかないことを承知の上で、戦争をはじめたというわけです” (111頁)
●日清・日露戦争において兵士に脚気にかかって死亡する者が多かったのは、軍隊の主食が白米だったことによる。明治維新後、精白した白米の価格が下がって入手しやすくなったため、日本では脚気が流行するようになった。江戸時代からの漢方の知識によって麦飯を食べれば脚気は治ることが知られていたので、明治25年ごろには軍隊内での脚気はほぼ見られなくなっていた。ところが陸軍軍医本部や東京大学医学部の教授たちは脚気を感染症であると考え、栄養学的に麦入り飯が白米より優れているという根拠は全くないとして、野戦衛生長官石黒直悳は日清戦争で戦地へ白米を送った。戦後石黒の後任として日露戦争時の野戦衛生長官となった小池正直は脚気と麦飯とは原因上関係があることを認めたが、森林太郎(鴎外)は、「日本陸軍および海軍の脚気減少は、伝染病特有の流行期の変動による自然現象であって兵食改善等の結果ではない」と強硬に反対した。おそらく森の反対が原因で日露戦争でもやはり兵士の主食には白米が用いられ、大量の脚気病患者が発生した。森は戦後、臨時脚気病気調査会の会長になるが、この立場を変えず、「麦飯や玄米は脚気に効く」と主張する軍医を首にしたりした。「ドイツの偉い医学者たちの認めていないような説は認めるわけにはいかない」というのが森の考え方だった。
“脚気は白米を食べる東洋人特有の病気だったので、欧米の学者たちは脚気のことにはほとんど関心がなかったのです。(略)ビタミンは本当は日本の医学者たちによって発見されてもよかったのに、日本の秀才医学者たちは、欧米の偉い学者たちのうしろにつくことばかり考えていて、その大発見の好機を逃がしたというわけです” (80頁)
(仮説社 1993年11月第2版1刷)
●西南戦争の戦死者は、政府軍・鹿児島軍あわせて1万3000~1万4000人。うち政府軍6936人(『靖国神社忠魂史』)もしくは6843人(『征西記稿』)、鹿児島軍5217人(『丁丑乱概』)もしくは7276人(『西南記伝』)。
●日清戦争の戦没者は1万3249人(陸軍1万2989人、海軍260人)。うち戦死者は1904人(陸軍1717人、海軍187人)、病死者は1万1345人(『靖国神社忠魂史』)。病死者のうち約3分の1にあたる4064人は脚気によるもの。
●日露戦争の戦没者は8万7983人(陸軍8万3941人、海軍4042人)。うち病死者は2万4182人(陸軍2万3822人、海軍360人)、戦没者の約3割(『靖国神社忠魂史』)。死因の第一位は脚気。
●第一次世界大戦の戦没者は1352人(シベリア出兵の戦没者を除く)。うち病死者は247人、全体の18パーセント(『靖国神社忠魂史』)。
●太平洋戦争の戦没者は240万人、うちフィリピン52万人、中国本土46万人、ソ連・満州32万人、パプアニューギニア25万人、中部太平洋諸島25万人、インドシナ半島20万人、沖縄19万人、インドネシア14万人(『定本 太平洋戦争』)。
●日清戦争および日露戦争のことを当時の日本では「征清戦争」「征露戦争」とも呼んでいた。征伐の征である。この二つの戦役(前者は「明治二十七、八年の戦役」、後者は「明治三七、八年の戦役」という呼び方もあった)の宣戦布告の詔勅には「いやしくも国際法にもとらざる限り」もしくは「凡そ国際条規の範囲に於いて一切の手段を尽くし」といった国際法遵守の姿勢を明言した文言が見えるが、大東亜戦争においてはない。
“日清・日露の戦争のときは、国際世論を味方につけようと懸命だったのに、今度は国際世論が味方につかないことを承知の上で、戦争をはじめたというわけです” (111頁)
●日清・日露戦争において兵士に脚気にかかって死亡する者が多かったのは、軍隊の主食が白米だったことによる。明治維新後、精白した白米の価格が下がって入手しやすくなったため、日本では脚気が流行するようになった。江戸時代からの漢方の知識によって麦飯を食べれば脚気は治ることが知られていたので、明治25年ごろには軍隊内での脚気はほぼ見られなくなっていた。ところが陸軍軍医本部や東京大学医学部の教授たちは脚気を感染症であると考え、栄養学的に麦入り飯が白米より優れているという根拠は全くないとして、野戦衛生長官石黒直悳は日清戦争で戦地へ白米を送った。戦後石黒の後任として日露戦争時の野戦衛生長官となった小池正直は脚気と麦飯とは原因上関係があることを認めたが、森林太郎(鴎外)は、「日本陸軍および海軍の脚気減少は、伝染病特有の流行期の変動による自然現象であって兵食改善等の結果ではない」と強硬に反対した。おそらく森の反対が原因で日露戦争でもやはり兵士の主食には白米が用いられ、大量の脚気病患者が発生した。森は戦後、臨時脚気病気調査会の会長になるが、この立場を変えず、「麦飯や玄米は脚気に効く」と主張する軍医を首にしたりした。「ドイツの偉い医学者たちの認めていないような説は認めるわけにはいかない」というのが森の考え方だった。
“脚気は白米を食べる東洋人特有の病気だったので、欧米の学者たちは脚気のことにはほとんど関心がなかったのです。(略)ビタミンは本当は日本の医学者たちによって発見されてもよかったのに、日本の秀才医学者たちは、欧米の偉い学者たちのうしろにつくことばかり考えていて、その大発見の好機を逃がしたというわけです” (80頁)
(仮説社 1993年11月第2版1刷)