書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

榎原雅治編 『日本の時代史 11 一揆の時代』 

2005年02月25日 | 日本史
“中世後期の社会においては、武士も、農民も、僧侶も、「一揆」を取り結んだ。大名の家臣たちの結合や、さらには中央政権を構成する大名たちの結合でさえ、「一揆」と呼ばれていた。構成メンバーの平等性を原則に結ばれた「一揆」は、集団の合意を得たものであることを正当性の最大の根拠として、上位の権力に対してしばしば要求行動を起こした。「下剋上」とは、この行動を、要求を突きつけられた側から表現した言葉にほかならない” (榎原雅治「一揆の時代」 9頁)

 だから用語として使用しないというのは、一つの見識だと思う。

 しかしである。
 「あとがき」によれば、室町時代研究は「研究上の関心の多様化、対象とする史料の広がりという、歴史学の一般的傾向」の例にもれず、「新たな事実の発掘が進み、魅力的な論点が次々と提起されている」現状にあって、「本書を一読し、流通関係の論考が多いなと感じられた読者もあるかもしれないが、それはまさに現在の研究状況を反映したものである」とのことである。室町時代の研究者は新史料があるから流通史をやっているだけで、自分がそれを何のためにやっているのか、室町時代研究全体の中で自分のやっていることがどういう意味をもっているのかといったことについては考えていないということらしい。
 室町時代の概説であるこの書の全五章のうち、三章もが流通史であることの理由は何もないということだ。一冊を一冊たらしめるモチーフのない本は本と呼ぶに値しない。

“歴史学者は、知られている事実を次々に提示して、歴史の話を構成する。そのこと自体には問題がないように思われるかもしれない。しかしじつは、その「知られている事実を次々と提示すること」が科学好きの私のようなものには我慢がならないのである。(略)科学の話は「知っている事実」からではなく、「知りたい事実」から出発する。(略)ふつうの歴史の本には(もともと歴史好きの人は別にして)、ごくふつうの人が「知りたいと思わない」ようなことが一杯書き連ねてあるかと思うと、一般の人々が「知りたい」と思うような事実はほとんど書かれていないのが普通だ。歴史学者はいつも、「たまたま知られた事実」をもとにして研究する習慣が身についてしまったために、「どんな事実が知るに値する事実なのか」ということを考える習慣がほとんどないことによるのだろう”

 という、今月23日『日本史再発見 理系の視点から』における板倉聖宣氏の指摘を地でいくような話である。

(吉川弘文館 2003年4月)