DVD-ROM《世界大百科事典 第2版》より
厳復 (1853‐1921)
「中国,清末から民国時代初の啓蒙思想家,翻訳家。字は又陵(ゆうりよう),号は幾道,晩年は瘉穫(ゆや)老人と号した。福建省侯官(髪侯(びんこう))県の人。1871年(同治10),福州船政学堂で航海術を学んで卒業,77年(光緒3),イギリスに留学,ポーツマス大学,グリニッジ海軍大学で海軍に必要な科学技術知識を習得した。しかし,このときから近代的軍事技術を支えている西欧の政治経済や哲学に強い関心を寄せていた。帰国後,80年,北洋水師学堂総教習,90年,同総弁(校長)になったが,科挙出身でないために,自分の意見が政界で軽んじられるのを不満として,郷試を4回も受験した。95年,日清戦争で中国が敗北して後,彼は政治論文〈世変の亟(すみ)やかなるを論ず〉〈原強〉〈救亡決論〉〈闢韓(へきかん)〉の4編を発表,中国富強の根本は,民力を鼓舞し,民智を開き,民徳を新たにすることにあり,その障害となっている科挙制度や専制政体の廃止を説き,ひいては,思想的基盤である朱子学,陽明学の非実用性を鋭く批判し,西洋の学問や議院制の必要を主張した。
98年,ハクスリー《進化と倫理》(1894)の漢訳を《天演論》と題して出版した。生存競争,優勝劣敗による進化という社会進化的観念は,当時の知識人に中国は亡国の危機にさらされているという意識をよびおこし,桐城派古文の典雅な文章とあいまって,《天演論》は青年たちに暗誦されるほど歓迎され,彼の名を不朽のものにした。それ以後彼は,アダム・スミス《原富》(1902,《国富論》),ミル《群己権界論》(1903,《自由論》),ミル《穆勒(ぼくろく)名学》(1905,《論理学体系》),モンテスキュー《法意》(1904‐09,《法の精神》)など多くの翻訳を出版し,西欧近代の学術的成果を紹介した。しかし,辛亥革命(1911)以後は,しだいに伝統思想へ接近してゆき,袁世凱の帝制運動を助けるなど,かつての名声も地に落ち,1921年,五・四新文化運動のさなか,病没した。」 (坂出 祥伸)
“朱熹は格物致知の語を、事物から原理を探り出す意味であると説明している。しかし、彼はこの原理の探究を書を読むことに適用したのである。・・・・・・かくして、中国の学問では、人は古人の解釈を探り当てなければならないことになる。古人が誤っていたとしても、その誤りは明らかにされない。古人がたとえ正しくとも、人は彼らがなぜ正しいのかを知らない” (厳復「原強」、1895年。本書第九章「ミル『論理学』」188頁の引用)
この人は科学的思考における論理学――とくに帰納――と数学の重要性を正しく認識していたにもかかわらず、いわば詰めを間違えた。社会科学を自然科学に勝る最高の科学と誤認したのである。
“厳復がミルと共有する主な敵意は、生得的観念、思考の先験的・主観的な範疇、直感的知識などの観念すべてに対する敵意であった。しかし、客観的な合理的秩序が現象の流れの背後に横たわっているとする考え方に対する絶対的な反対は、厳復にはなかった” (第九章「ミル『論理学』」 193頁)
“厳復が科学という語を理解するかぎりでは、科学は、スペンサーの形而上学の全体系と正確に同一でなければならなかった。すでにミルが科学の論理的方法を説明してくれていたにもかかわらず、スペンサーの総合哲学はもっとも厳格な帰納法的論理の基準によって得られたものであるという厳復の確信は揺らがなかった。すでに一八九五年の論策に見られたように、厳復は、スペンサー主義をとっくに中国の形而上学の一元論的・汎神論的主流と同一視していたのである。この評点で厳復がしたことは、老子をこの中国哲学の源流と指定することなのであった” (第十章「『道』に関する省察」 198頁)
“現象の流れは合理的な秩序に組織化されるが、その合理的な秩序自身は、根元的な不可思議――「道」――から発するのである。かくして、厳復の哲学の師であり続けるのは、ミルではなくてスペンサーなのであった” (第九章「ミル『論理学』」 193頁)
彼もまたイデオロギストだった。
彼がやったのは、儒教というイデオロギーに基づく「君子の支配」に対して、スペンサー(その実老子)という別のイデオロギーに基づく「法の支配」で対抗しようとしたということでしかない。
この書の著者は彼を形容して“よくいってもいささか荒っぽい形而上学者”と呼んでいる(第十章、199頁)。
(東京大学出版会 1980年11月第2刷)
厳復 (1853‐1921)
「中国,清末から民国時代初の啓蒙思想家,翻訳家。字は又陵(ゆうりよう),号は幾道,晩年は瘉穫(ゆや)老人と号した。福建省侯官(髪侯(びんこう))県の人。1871年(同治10),福州船政学堂で航海術を学んで卒業,77年(光緒3),イギリスに留学,ポーツマス大学,グリニッジ海軍大学で海軍に必要な科学技術知識を習得した。しかし,このときから近代的軍事技術を支えている西欧の政治経済や哲学に強い関心を寄せていた。帰国後,80年,北洋水師学堂総教習,90年,同総弁(校長)になったが,科挙出身でないために,自分の意見が政界で軽んじられるのを不満として,郷試を4回も受験した。95年,日清戦争で中国が敗北して後,彼は政治論文〈世変の亟(すみ)やかなるを論ず〉〈原強〉〈救亡決論〉〈闢韓(へきかん)〉の4編を発表,中国富強の根本は,民力を鼓舞し,民智を開き,民徳を新たにすることにあり,その障害となっている科挙制度や専制政体の廃止を説き,ひいては,思想的基盤である朱子学,陽明学の非実用性を鋭く批判し,西洋の学問や議院制の必要を主張した。
98年,ハクスリー《進化と倫理》(1894)の漢訳を《天演論》と題して出版した。生存競争,優勝劣敗による進化という社会進化的観念は,当時の知識人に中国は亡国の危機にさらされているという意識をよびおこし,桐城派古文の典雅な文章とあいまって,《天演論》は青年たちに暗誦されるほど歓迎され,彼の名を不朽のものにした。それ以後彼は,アダム・スミス《原富》(1902,《国富論》),ミル《群己権界論》(1903,《自由論》),ミル《穆勒(ぼくろく)名学》(1905,《論理学体系》),モンテスキュー《法意》(1904‐09,《法の精神》)など多くの翻訳を出版し,西欧近代の学術的成果を紹介した。しかし,辛亥革命(1911)以後は,しだいに伝統思想へ接近してゆき,袁世凱の帝制運動を助けるなど,かつての名声も地に落ち,1921年,五・四新文化運動のさなか,病没した。」 (坂出 祥伸)
“朱熹は格物致知の語を、事物から原理を探り出す意味であると説明している。しかし、彼はこの原理の探究を書を読むことに適用したのである。・・・・・・かくして、中国の学問では、人は古人の解釈を探り当てなければならないことになる。古人が誤っていたとしても、その誤りは明らかにされない。古人がたとえ正しくとも、人は彼らがなぜ正しいのかを知らない” (厳復「原強」、1895年。本書第九章「ミル『論理学』」188頁の引用)
この人は科学的思考における論理学――とくに帰納――と数学の重要性を正しく認識していたにもかかわらず、いわば詰めを間違えた。社会科学を自然科学に勝る最高の科学と誤認したのである。
“厳復がミルと共有する主な敵意は、生得的観念、思考の先験的・主観的な範疇、直感的知識などの観念すべてに対する敵意であった。しかし、客観的な合理的秩序が現象の流れの背後に横たわっているとする考え方に対する絶対的な反対は、厳復にはなかった” (第九章「ミル『論理学』」 193頁)
“厳復が科学という語を理解するかぎりでは、科学は、スペンサーの形而上学の全体系と正確に同一でなければならなかった。すでにミルが科学の論理的方法を説明してくれていたにもかかわらず、スペンサーの総合哲学はもっとも厳格な帰納法的論理の基準によって得られたものであるという厳復の確信は揺らがなかった。すでに一八九五年の論策に見られたように、厳復は、スペンサー主義をとっくに中国の形而上学の一元論的・汎神論的主流と同一視していたのである。この評点で厳復がしたことは、老子をこの中国哲学の源流と指定することなのであった” (第十章「『道』に関する省察」 198頁)
“現象の流れは合理的な秩序に組織化されるが、その合理的な秩序自身は、根元的な不可思議――「道」――から発するのである。かくして、厳復の哲学の師であり続けるのは、ミルではなくてスペンサーなのであった” (第九章「ミル『論理学』」 193頁)
彼もまたイデオロギストだった。
彼がやったのは、儒教というイデオロギーに基づく「君子の支配」に対して、スペンサー(その実老子)という別のイデオロギーに基づく「法の支配」で対抗しようとしたということでしかない。
この書の著者は彼を形容して“よくいってもいささか荒っぽい形而上学者”と呼んでいる(第十章、199頁)。
(東京大学出版会 1980年11月第2刷)