風邪をひいていても(今や発熱もしているが)読ませると私が言う福沢の文章とはこのようなものである。
"磨きたる金(かね)は熱気を吸込むことも遅くして亦(また)これを吐出(はきいだ)すことも遅し。ゆえに、同じ大さの錫(すず)の急須(きびしょ)を二(ふたつ)いだし、その一(ひとつ)に泥を塗りて、両方ともに熱湯(にえゆ)をいれ置くときは、泥を塗りたる方の湯は既(すで)に水となるとも、一方の湯はいまだ冷(ひえ)ざるべし。泥にて〔月咼〕(きめ)を粗(あら)くしなしたるゆえ、熱気を吐出すこと速きなり。又この急須に水をいれて火に掛(かけ)なば、泥を塗りたる方先に沸くべし。火気を吸込むこと速ければなり。〔月咼〕の粗き鉄瓶と、底まで磨立(みがきたて)たる銅(あかがね)の薬鑵(やかん)とにて湯を沸かさば、鉄瓶の方先に沸くべし。世間の炊婢(げじょ)、何ほど奉公をよく勤(つとむ)るとも、鍋釜の尻を白金(しろがね)の如(ごと)くに磨くべからず" (卷の一、16頁)
最後の一文がいかにも福沢らしい。
カッコ内は原文に振ってあるふりがなである。福沢は、自分の文章ですこしでも難しいと思える漢字を使う時には、かならずふりがなを付けた。彼は国語簡略化論者で、『文字之教』(明治6・1873年)という専論もある。
"都(すべ)て世の中の物事は、大小に拘(かかわ)らず、道理を考えずしてその儘(まま)に捨(すて)置けば、その儘のことにて、面白くもなく珍しくもあらざれども、よく心を留(とめ)てこれを吟味するときは、塵芥一片(ちりひとは)、木葉一枚のことにてもその理あらざるはなし。故に人たるものは幼きときより心を静(しずか)にして、何事にも疑(うたがい)を起こし、博(ひろ)く物を知り、遠く理を窮(きわめ)て、知識を開かんことを勉(つと)むべし" (卷の一、結語、24頁)
書名となっている「窮理」を、物理学の訳語に当てるようになったのは幕末の蘭学者もしくは洋学者たちである(ちなみに福沢は洋学者の掉尾を飾る存在である)。1863年に蕃書取調所が開成所に改組された際、学科名として「窮理」が採用されている。
上の文章にあるとおり、窮理とは理を窮めるという意味である。ここで“理”という言葉が自然法則の意味として使われているのはいうまでもない。やはり上の文章に見える“道理”(ほかの場所では“理合”という言葉を使っている場合もある)もその意味である。
しかし“理”や“道理”はもともと儒教の用語・概念であって、元来は仁義礼智信といった人間と社会のあるべき姿のための倫理的規範を意味する。“窮理”は『易』にある言葉で、朱子学でとくに強調される語である。
現代風に言い換えれば、儒教においては(つまり前近代の中国、および朝鮮においては)、“理”“道理”とはせいぜい人文・社会科学における法則ではあったが、自然科学のそれではなかったということである。
ところが“訓蒙”=啓蒙書と題に掲げ、序文においては「童蒙の知識を開くの一助に供えんとする」、つまり子供や初心者のためと唱いながら、福沢は、この『窮理図解』(明治元・1867年出版)のなかで、「理」や「道理」といった言葉をすべて何の説明も加えず自然法則の意味において使っている。(ちなみに明治10年前後以降、現在まで使われている「物理」という言葉は「物の道理」という意味だ。)何も知識のない読者に向けてやさしく書くのを旨とする入門書において、彼は「理」や「道理」の新しい意味について解説する必要を認めなかったのである。このことは江戸時代末期のわずか数年間に日本人の「理」や「道理」の概念が根本的に転換したということを意味しているのかどうか。あるいはその以前から日本人の“理”や“道理”には自然科学的な意味が部分的・萌芽的にも含まれていたということかどうか。
(中川眞弥編 『福澤諭吉著作集 2』 慶應義塾大学出版会 2002年3月)
"磨きたる金(かね)は熱気を吸込むことも遅くして亦(また)これを吐出(はきいだ)すことも遅し。ゆえに、同じ大さの錫(すず)の急須(きびしょ)を二(ふたつ)いだし、その一(ひとつ)に泥を塗りて、両方ともに熱湯(にえゆ)をいれ置くときは、泥を塗りたる方の湯は既(すで)に水となるとも、一方の湯はいまだ冷(ひえ)ざるべし。泥にて〔月咼〕(きめ)を粗(あら)くしなしたるゆえ、熱気を吐出すこと速きなり。又この急須に水をいれて火に掛(かけ)なば、泥を塗りたる方先に沸くべし。火気を吸込むこと速ければなり。〔月咼〕の粗き鉄瓶と、底まで磨立(みがきたて)たる銅(あかがね)の薬鑵(やかん)とにて湯を沸かさば、鉄瓶の方先に沸くべし。世間の炊婢(げじょ)、何ほど奉公をよく勤(つとむ)るとも、鍋釜の尻を白金(しろがね)の如(ごと)くに磨くべからず" (卷の一、16頁)
最後の一文がいかにも福沢らしい。
カッコ内は原文に振ってあるふりがなである。福沢は、自分の文章ですこしでも難しいと思える漢字を使う時には、かならずふりがなを付けた。彼は国語簡略化論者で、『文字之教』(明治6・1873年)という専論もある。
"都(すべ)て世の中の物事は、大小に拘(かかわ)らず、道理を考えずしてその儘(まま)に捨(すて)置けば、その儘のことにて、面白くもなく珍しくもあらざれども、よく心を留(とめ)てこれを吟味するときは、塵芥一片(ちりひとは)、木葉一枚のことにてもその理あらざるはなし。故に人たるものは幼きときより心を静(しずか)にして、何事にも疑(うたがい)を起こし、博(ひろ)く物を知り、遠く理を窮(きわめ)て、知識を開かんことを勉(つと)むべし" (卷の一、結語、24頁)
書名となっている「窮理」を、物理学の訳語に当てるようになったのは幕末の蘭学者もしくは洋学者たちである(ちなみに福沢は洋学者の掉尾を飾る存在である)。1863年に蕃書取調所が開成所に改組された際、学科名として「窮理」が採用されている。
上の文章にあるとおり、窮理とは理を窮めるという意味である。ここで“理”という言葉が自然法則の意味として使われているのはいうまでもない。やはり上の文章に見える“道理”(ほかの場所では“理合”という言葉を使っている場合もある)もその意味である。
しかし“理”や“道理”はもともと儒教の用語・概念であって、元来は仁義礼智信といった人間と社会のあるべき姿のための倫理的規範を意味する。“窮理”は『易』にある言葉で、朱子学でとくに強調される語である。
現代風に言い換えれば、儒教においては(つまり前近代の中国、および朝鮮においては)、“理”“道理”とはせいぜい人文・社会科学における法則ではあったが、自然科学のそれではなかったということである。
ところが“訓蒙”=啓蒙書と題に掲げ、序文においては「童蒙の知識を開くの一助に供えんとする」、つまり子供や初心者のためと唱いながら、福沢は、この『窮理図解』(明治元・1867年出版)のなかで、「理」や「道理」といった言葉をすべて何の説明も加えず自然法則の意味において使っている。(ちなみに明治10年前後以降、現在まで使われている「物理」という言葉は「物の道理」という意味だ。)何も知識のない読者に向けてやさしく書くのを旨とする入門書において、彼は「理」や「道理」の新しい意味について解説する必要を認めなかったのである。このことは江戸時代末期のわずか数年間に日本人の「理」や「道理」の概念が根本的に転換したということを意味しているのかどうか。あるいはその以前から日本人の“理”や“道理”には自然科学的な意味が部分的・萌芽的にも含まれていたということかどうか。
(中川眞弥編 『福澤諭吉著作集 2』 慶應義塾大学出版会 2002年3月)