書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

西順蔵編 『原典中国近代思想史 第二冊 洋務運動と変法運動』

2005年02月23日 | 東洋史
 中国は今でも民族の思考洋式においては近代化に成功していないと言えるのではなかろうか。
 この問いは、こうも言い換えることができる。変法維新運動に成功しなかった中国は結局、現在にいたって洋務運動に――軍事面だけでなく経済面においてもだが――成功した段階と言えるのではないのかと。
 中国人の言論、とくに反日言論の多くに共通する、主観的認識が客観的事実に優先する旧中国そのままの伝統的な思考様式がその証拠である。「中国の特色を持った社会主義」など、いわばいまだに中体西用論の段階の発想なのではないだろうか。

 ――というようなことを雑駁に考えつつ、洋務論(中体西用論)と変法論の主要な言論を翻訳収録してあるこの書から、論者の“数理学”に関わる言及箇所を、とりあえずは拾ってみることにした。

●洋務論

馮桂芬 「西学を採るの議」 (野村浩一訳)

“いま、西学を採り入れようとするならば、広東、上海に、それぞれ翻訳公所を設け、近在の十五才以下の聡明な文童(科挙試験準備中の児童)を選び、給費を倍にし、寄宿舎に住まわせて学習させ、西洋人を招聘して諸国の語言文字を学ばせ、また国内の高名の師を招聘して、経学、史学などを学ばせ、さらに合せて算学を学習させるべきである” (55頁)

“一切の西学は、みな算学から出発している。西洋人は、十歳以上になると算学を学ばないものはない。いま、西学を採り入れようとするなら、算学を学ばないわけにはいかない” (同上)

鄭観応 「盛世危言」 (野村浩一訳)

“『大学』の八条目のうち第五の「格致」の一伝の部分が亡失し、『周礼』から「冬官」の一冊が欠如してのち、古人の名、物、象、数の学は、流徙してヨーロッパに入り、その工芸の精妙なることは、ついに中国のはるかに及ばないところとなった。けだし、我は、その本に専心し、彼は、その末を追求したのであり、我は、その精髄を明らかにし、彼は、その粗を手にしたのであり、我は、事物の理を窮め、彼は万物の質を究明したのである” (「道器」、71頁)

張之洞 「勧学篇」 (野村浩一訳)

“各省、各道、各府、各州、各県は、すべて学堂〔注・新制の学校〕を設立し、首都・省城には大学堂、道・府には中学堂、州・県には小学堂を設置すべきである。(略)小学堂では四書を学び、中国の地理、中国史の大略、及び算数、図画、格致の初歩に通ずる。中学堂の各教科は、小学堂より程度が高く、さらに五経を学び、『通鑑〔注・資治通鑑〕』を学び、政治学を学び、外国語を学ぶことがつけ加わる。大学堂では、これらをいっそう深く習得するのである” (「外篇第三」、112頁)

“学堂の方針にはおよそ五つの要点がある。(略)
 一、新学、旧学をあわせて学ぶ。四書五経、中国の歴史・歴史・制度・地図は旧学であり、西政・西芸(西洋の技術)・西史は新学である。旧学は体であり、新学は用である。
 一、政と芸をあわせて学ぶ。学制・地理・財政・税制・軍事・法律・工業政策・商業政策は、西政であり、数学、製図、鉱業、医術、音響学、光学、化学、電気学は、西芸である。(略)小学堂では、まず芸を学んでそれから政を学ぶ。大学堂、中学堂では、まず政を学んで、それから芸を学ぶ。(略)およそ時局を救い、国のために謀る方策についていえば、政は、芸よりは、はるかに急務である。しかしながら、西政を講究するものは、また西芸の効用についても、おおよそ考察しておくべきであって、そうしてこそはじめて西政のねらいを知ることができる。
 一、少年を教育すべきこと。数学を学ぶには、思考力の鋭いものが必要であり、(略)格致、化学、製造を学ぶには、素質、鋭敏なものが必要である。(略) 中年以上の人間は、智力、精力はもはや減退し、課業をつんでも往々にして合格できず、しかもそれまでの考え方が深く染みこんでいるので、虚心に受け入れることが難しい。(後略)” (同、114-115頁)

●変法論

康有為 「大同書」
  →今月18日「坂出祥伸『大同書』/ 譚嗣同著 西順蔵・坂元ひろ子訳注『仁学 清末の社会変革論』」を見よ。

譚嗣同 「仁と学」
  → 同上。

(岩波書店 1977年4月) 

板倉聖宣 『日本史再発見 理系の視点から』 

2005年02月23日 | 日本史
 これも考えるヒントとしての書き抜き。

“一般の科学好きの人の中には、私のように歴史嫌いの人が少なくない。私はそれを、単なる好みの問題だとは思わない。それは、「これまでの歴史学というものが科学になっていない」という感覚に基づいているように思うからである。(略)
 こういうと、歴史学者から大変な抗議が寄せられるかもしれない。その人々はいうだろう。「歴史学だって立派な学問だ。戦前の天皇中心主義的な歴史学は非科学的なものだったが、いまの歴史学は科学的なものになっている。実証的な学問になっている」と。
 問題がそこにある。科学好きの人々も、ここでしばしば誤魔化されてしまうのだが、「実証的」ということと「科学的」ということとは違う。もともとすべての学問は実証的である。事実に根ざさない学問なんか、原理的にはありえない。しかし、科学というものは、その「事実に基づく」段階から一歩踏み出したところに成立しているのである。
 たとえば、地球説や地動説、原子論といったものを考えてみるといい。そんなものは、事実に基づいて出てきたものではない。むしろ、「直接的な事実を無視した大いなる空想、仮説が、もとになって生みだされた」と言ったほうがいいほどである。
 歴史学者は、知られている事実を次々に提示して、歴史の話を構成する。そのこと自体には問題がないように思われるかもしれない。しかしじつは、その「知られている事実を次々と提示すること」が科学好きの私のようなものには我慢がならないのである。(略)科学の話は「知っている事実」からではなく、「知りたい事実」から出発する。(略)ふつうの歴史の本には(もともと歴史好きの人は別にして)、ごくふつうの人が「知りたいと思わない」ようなことが一杯書き連ねてあるかと思うと、一般の人々が「知りたい」と思うような事実はほとんど書かれていないのが普通だ。歴史学者はいつも、「たまたま知られた事実」をもとにして研究する習慣が身についてしまったために、「どんな事実が知るに値する事実なのか」ということを考える習慣がほとんどないことによるのだろう” (「はしがき――歴史と科学と」 2-4頁)

“それでは、日本史を〈理系の目〉=科学の目で見ようと思ったら、まずどんな史料に目をつければいいのだろうか。私はまず、数量的なデータに注目することが大切だと思う。自然科学が対象を数量的に研究してその権威を確立したことはよく知られている。ところが、一般の歴史家は、数量的な事柄にあまり注意を払わない。そこで、歴史の中の数量的なものに注目しただけで、科学の目で見た歴史が構築できることになる” (第14話「江戸時代を数量的に見る――江戸時代後半の相馬藩――」 167-168頁)

“それなら、どんな数量に目をつけるか。「広い地域をおう長い時代にわたる数量の変化が見られるものなら、なんでもいい」というのが、いまの私の結論である。(略)長期にわたる統計資料が入手できれば、長期にわたる社会の変化を見るのにとても役立つ” (同、168頁)

“(明治維新の)結果、まがりなりにも、四民平等が実現し、職業と移住の自由が完全に実現した。そういう結果からすると、「明治維新は市民革命と呼んでもいいのではないか」と私は考えるのである。今日の日本までの間には、敗戦後の民主化の時代があるが、日本は敗戦以前から封建的な時代を脱して、かなり自由・平等な国になったことは間違いあるまい。
 つまり私は、「革命の性格は、その革命の担い手やスローガンを見て判断すべきものではなくて、その革命の結果を見て判断すべきものではないか」というのである。本書の主題と関係させて言えば、「物事を動機よりも結果で判断する」という考え方は、「理系の目」の特徴でもあると思うのだが、どうだろうか” (第24話「不思議な革命=明治維新――明治革命は市民革命か否か――」 295-296頁)

“私はいま、「科学研究においては〈実験〉の前の〈仮説〉が決定的に重要だ」と書きましたが、その場合の「科学」というのは、自然科学だけではありません。私は長いあいだ、「社会の科学の場合も実験ができるし、実験で確かめられない理論は、いかにもっともらしくても信用できない」と考えてきました。この場合、私が「実験」というのは、必ずしも「実験器具を使って対象を制御するもの」ばかりではありません。「〈まだその結果を知らない事実について予想・仮説をたてて、その予想・仮説の正否を客観的に確かめる行為〉は、すべて実験と呼ぶべきものだ」というのが、私の実験論=科学認識論なのです” (「あとがき」 309-310頁)

“これまで自然科学教育の中で教えられてきた一つひとつの事実は、間違っていることはほとんどありません。けれども、「その科学のもっとも基本的な概念を理解するためにはどんな問題提起が必要か」ということの研究が見過ごされてきたのです” (同、310頁)

“社会の科学の教育の場合には、これまで真理とされてきたことが本当に真理と言えるかどうかということさえ怪しいことが少なくありません。またその事実そのものは間違っていなくとも、それがもっとも普遍的・一般的な事実でないときには、「そういう事実を教えこまれたために、却って全体が見えなくなる」ということが少なくない” (同、310-311頁)

 次は、同じ著者による『社会の法則と民主主義』(仮説社 1988年)を読んでみる予定。
 なお冒頭の“考えるヒントとして”が“重大な指摘や貴重な示唆”の婉曲表現であることは言うまでもない。

(朝日新聞社 1996年12月第6刷)

王敏 『ほんとうは日本に憧れる中国人  「反日感情」の深層分析』

2005年02月23日 | 政治
 中国の歴史教育は反日教育ではなく、教える歴史事実が近現代中心のため、「反封建」「反帝国主義」がどうしても重視されてしまう結果だそうである。つまりこの筆者は中国の歴史教育では日本に関してまったく正確な事実を教えているのだと、こういう形で暗に言っているわけである。
 隠微な形の嘘である。そしてこれが嘘であることは例を挙げるまでもない。嘘であることは――少なくとも真実ではないことは――、専門家の本人が百も承知のはずであるから。

 一つ目。人は真実を語らなければならない。
 二つ目。だが真実を語りたくてもできない時は沈黙すべきである。
 三つ目。環境からの圧迫によって沈黙を守ることも不可能な時は、虚偽を語るほかはないが、他人に害をあたえることはあってはならない。
  (「曹長青評論邦訳集・正気歌」2003年7月12日「呉祖光氏の誠実、銭理群氏の原則――呉祖光氏追悼」参照)

 この人もまた銭理群氏の“三つの原則”の遵奉者なのだろう。筆者がいま二番目か三番目のどちらの段階にいるのかは微妙なところだが、いずれにせよ劉暁波氏の言葉を借りれば“人たるをやめるための”道をこの人が取っているということは、紛れもない。 
 昨年12月21日欄で取り上げた同じ著者の『なぜ噛み合わないのか 日中相互認識の誤作動』は素晴らしい本である。その評価を変えるつもりはない。しかしこの人ですらなお斯くの如きか。

(PHP研究所 2005年1月)