まず最初に知識の整理をしたい。
19世紀中葉から20世紀初頭にかけての中国清末思想(=国家の独立維持・強化を目的とする近代化思想)は、洋務論(中体西用論)→変法論→革命論の順を追って推移する。
洋務論は中国の伝統文化(道)を根本(体)とし、西洋の有用な科学技術(というよりその成果たる機械、それも兵器)だけを取り入れるという主張である。
変法論は1894-95年の日清戦争で、ほぼ同時期に同様の目的をもって近代化しつつあった日本に破れたことにより洋務論が破産したことを受けて、日本に倣って西洋の科学技術の背景となっている制度(憲法、国会、法律など)をも取り入れなければならないとする主張である。具体的には立憲君主国家を目指した。変革の正当化には春秋公羊学が用いられた。中国文明より後発の西洋文明のほうが部分的にせよ優れているという認識の背後には厳復などによって翻訳紹介されて当時中国に流入してきた社会進化論の影響がある。西洋に倣って改革すべきと目された制度が政治面のそれに集中しているのが特徴である。
革命論は康有為、梁啓超、譚嗣同らによる変法維新運動の失敗により、漢民族意識とともに台頭してきた、清朝そのものを倒して体制ごと変革しなければ中国の強化はできないとする考え方である。
洋務論もしくは中体西用論は、日本の幕末において佐久間象山ほかが唱えた“和魂洋才”論に相当するものととりあえず考えておく。
変法論は明治維新に範を採ったものと、主張者(康有為)みずからが認めている。しかし中国の体制改革は明治維新と比較すると政治面のそれに偏っている。日本の場合は、基本的に全面的西欧化つまり社会全体の西洋文明化を、すくなくとも明治初期は目指していた。
日本の徹底した(西洋)文明化を唱えた福沢諭吉は、日本の変法論者と見なすことができよう。
福沢は軍事面の近代化を枝葉末節のこととして重視していなかった。彼は『文明論之概略』で、英国が千艘の軍艦を持っているから日本は千艘の軍艦を揃えればそれで対抗できると思うのは、全体を見ない言であるとした。「文明にあらざれば独立は保つべからず」。なぜか。
“英に千艘の軍艦あるは、ただ軍艦のみ千艘を所持するにあらず、千の軍艦あれば、万の商売船もあらん。万の商売船あれば、十万人の航海者もあらん。航海者を作るには、学問もなかるべからず。学者も多く、商人も多く、法律も整い、商売も繁盛し、人間交際の事物、具足して、あたかも千艘の軍艦に相応すべき有様に至て、始て千艘の軍艦あるべきなり。(略)他の諸件に比して割合なかるべからず。割合に適さざれば、利器も用を為さず。(略)けだし巨砲大艦は以て巨砲大艦の敵に敵すべくして、借金の敵には敵すべからざるなり。今、日本にても、武備を為すに、砲艦は勿論、小銃軍衣に至るまでも、百に九十九は外国の品を仰がざるはなし。あるいは我製造の術、いまだ開けざるがためなりというといえども、その製造の術のいまだ開けざるは、即ち国の文明のいまだ具足せざる証拠なれば、その具足せざる有様の中に、独り兵備のみを具足せしめんとするも、事物の割合を失して実の用には適せざるべし。故に今の外国交際は、兵力を足して以て維持すべきものにあらざるなり” (『文明論之概略』巻六「第十章 自国の独立を論ず」)
これは、中国の洋務論や中体西洋論を近代化の道に非ずとして否定した内容(福沢本人がそう意識していたがどうかは別として)である。
“無産の山師が外国人の元金を用いて国中に取引を広くし、その所得をば悉皆金主の利益に帰して、商売繁盛の景気を示すものあり。あるいは外国に金を借用して、その金を以て外国より物を買入れ、その物を国内に排列して、文明の観を為すものあり。石室、鉄橋、船艦、銃砲の類、これなり。我日本は文明の生国にあらずして、その寄留地というべきのみ。結局この商売の景気この文明の観は国の貧を招て、永き年月の後には、必ず自国の独立を害すべきものなり” (同上)
福沢は、だから文明(西洋の文明)を丸ごと日本に導入し、日本の旧来の文明と入れ替えなければならないと言うのである。
しかし福沢は日本が何から何まで西洋のごとくあれと主張しているわけでもなさそうである。
彼は晩年、『福翁自伝』で明治維新(西洋化)の成果を裏返しに語って、「国勢の大体より見れば、富国強兵、最大多数最大幸福の一段に至れば、東洋国は西洋国の下におらねばならぬ。国勢の如何は果たして国民の教育より来るものとすれば、双方の教育法に相違がなくてはならぬ。ソコデ大体東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較してみるに、東洋になきものは、有形において数理学(自然科学、なかんずく数学と物理学)と、無形においては独立心と、この二点である」と、要約している。福沢の一生はまさに、それまでの日本に欠けたこの二つを近代日本にもたらす努力のそれであったし、この言葉をさらに裏返せば、福沢にとっての明治維新の価値はそこにあるということであり、そして福沢がこの点に関して満足していたことは、日清戦争の日本勝利に「愉快ともありがたいとも言いようがない」と泣いたことで明らかである(昨年12月6日欄福沢諭吉「文明論之概略」「通俗国権論」「通俗国権論二編」および「通俗民権論」参照)。
ここで福沢は文明化(西洋化・近代化)の鍵は教育にあると言っている。極端にいえばだが、福沢は、日本の文明化は国民教育さえ(制度はもちろん教育内容も含めて)改革できれば、あとのことは(政治体制の変革も)、遅かれ早かれ自然に随いてくると考えていたのかもしれない。
とすれば数理学とは単なる科目をだけ意味しているのではなく、それを成り立たせている思考様式を指していると考える方が良いだろう。ここで言う思考様式とは、「観察と推理と実験が相まって形成される」と、リチャード・ファインマンが『ファインマン物理学 Ⅰ 力学』(2002年12月30日欄)の冒頭で定義するところの、科学的思考様式である。推論は、帰納と演繹である。
福沢の言う“独立心”だが、福沢のほかの著作や発言からわかるように、これには個人の独立(民権)と国家の独立(国権)の二つの意味があり、さらに個人の独立は、自由と平等と権利から成っている。中国の変法論は、国の独立がもっぱらで、個人の独立の要素が薄い。現在の中国人も、中国の民主化を論じる時には必ずといっていいほど、個人の自由・権利・平等の欠落を問題とする。
ところで、“数理学”に関してはどうだろうか。今日の二冊はそのために読んだのである。
試みに、変法論の代表的な二人の理論家、康有為の『大同書』と譚嗣同の『仁学』から、“理”または“道理”もしくは科学技術に関する言及をひろってみることにする。
●康有為 『大同書』
“そもそも大地の文明というものは、実に人類が自分で開いたおかげだ。もし人類がすこしでも減れば、その聡明さも同時に減少して、ふたたび野蛮になるだろう。まして、男女の交わりを禁じて人類の種を絶つということなら、なおのことだ。もし、仏教の道に従うなら、大地十五億の繁栄せる人類は、五十年足らずで完全に絶滅しよう。百年後には、大地の繁盛していた都会、壮麗な宮殿、鉄道・電線の交通手段、精奇な器具はみな廃棄壊滅し、草木がぼうぼうと繁茂するようになる。そして全地はまったく、灌木や森林が茂り、鳥獣や昆虫が縦横にとびかうだけになる。こういうことは、行ってはならない事であるだけでなく、そのようにする道理はぜったいにないのである” (「己部 家界を去って天民となる」 前者155頁)
最後の一文の原文は「是れ独り行ふべからざる事のみならず、亦た必ずこれが理なし」 。“道理”ではなく“理”であるが、いずれにせよあきらかに儒教の“理”である。倫理的規範である。
●譚嗣同 『仁学』
“算学には深くなくても、幾何学には習熟しないといけない。事物を分析し事物を処理するすじみちがこれにそなわっているのだ” (後者 22頁)
“西洋人の格致の学こそは、蒙をひらいてみせてくれる” (後者 83頁)
“(論理学は)学問の基礎である。論理学から数学、数学は論理学をかたちに表したもの。数学から格致、格致は論理学と数学を実用化したもの” (同 84頁)
“(国家救済の)議論は数かずあるが、要約して挙げれば三つあって、それは学であり政であり教である。学にも数かずあるが、きわめつけは格致の精密化である。政にも数かずあるが、きわめつけは民権を興すこと。教となるとことにむつかしい。自他それぞれに流儀があって一つにまとめられないが、まずは仏教以外では統一できないだろう。学から進んでゆく順次をいえば、格致が学の基礎であり、それから政事に及び、そのうえで教の神髄をうかがうことができる” (同 185頁)
福沢の主張とほぼ同じである。
清末の中国では物理学および自然科学を「格致」と呼んでいた。もともとは「窮理」とおなじく儒教(とくに朱子学および陽明学。宋学)の言葉、「格物致知―物に格(いたり)て知を致す―」で、格も致も窮と同義、つまり「きわめる」という意味である。
政治体制改革の前に自然科学系の学問、それも数学と物理学の普及を置くのは福沢と同じである。最後に宗教を持ってくるところも表面的にいえばではあるけれども福沢と同じといえなくもない。ただし福沢は社会道徳の源泉としての宗教の効用を認めただけだったが譚嗣同の場合科学的知識はやはり悟りへの手段らしい。
宋以後の儒学には客観的認識を重視する側面――博物学的自然観察およびそれに基づく推論――もあることはあった。ただし実験による検証の発想はない。禅の影響が強い宋学では客観的認識は主観的な悟りの手段であって、最終的にはそれに収斂されるべきものである。言い換えれば信念と事実が食い違うときは事実のほうを無視するということもありうるのではないか。
それはさておいても両者で確実に一つ異なるところがある。それは譚嗣同が使っている「格致」という語が、福沢の使う――あるいは当時の日本語における――「窮理」とは違い、今でいうところの博物学をも含んでいた点である(譚嗣同個人について言えばそうではないようだが)。つまり、「格致」には観察と推論は不可欠とされるが実験については必ずしもそうではなかったということになる。
(明徳出版社 1976年11月)
(岩波書店 1994年3月第2刷)
19世紀中葉から20世紀初頭にかけての中国清末思想(=国家の独立維持・強化を目的とする近代化思想)は、洋務論(中体西用論)→変法論→革命論の順を追って推移する。
洋務論は中国の伝統文化(道)を根本(体)とし、西洋の有用な科学技術(というよりその成果たる機械、それも兵器)だけを取り入れるという主張である。
変法論は1894-95年の日清戦争で、ほぼ同時期に同様の目的をもって近代化しつつあった日本に破れたことにより洋務論が破産したことを受けて、日本に倣って西洋の科学技術の背景となっている制度(憲法、国会、法律など)をも取り入れなければならないとする主張である。具体的には立憲君主国家を目指した。変革の正当化には春秋公羊学が用いられた。中国文明より後発の西洋文明のほうが部分的にせよ優れているという認識の背後には厳復などによって翻訳紹介されて当時中国に流入してきた社会進化論の影響がある。西洋に倣って改革すべきと目された制度が政治面のそれに集中しているのが特徴である。
革命論は康有為、梁啓超、譚嗣同らによる変法維新運動の失敗により、漢民族意識とともに台頭してきた、清朝そのものを倒して体制ごと変革しなければ中国の強化はできないとする考え方である。
洋務論もしくは中体西用論は、日本の幕末において佐久間象山ほかが唱えた“和魂洋才”論に相当するものととりあえず考えておく。
変法論は明治維新に範を採ったものと、主張者(康有為)みずからが認めている。しかし中国の体制改革は明治維新と比較すると政治面のそれに偏っている。日本の場合は、基本的に全面的西欧化つまり社会全体の西洋文明化を、すくなくとも明治初期は目指していた。
日本の徹底した(西洋)文明化を唱えた福沢諭吉は、日本の変法論者と見なすことができよう。
福沢は軍事面の近代化を枝葉末節のこととして重視していなかった。彼は『文明論之概略』で、英国が千艘の軍艦を持っているから日本は千艘の軍艦を揃えればそれで対抗できると思うのは、全体を見ない言であるとした。「文明にあらざれば独立は保つべからず」。なぜか。
“英に千艘の軍艦あるは、ただ軍艦のみ千艘を所持するにあらず、千の軍艦あれば、万の商売船もあらん。万の商売船あれば、十万人の航海者もあらん。航海者を作るには、学問もなかるべからず。学者も多く、商人も多く、法律も整い、商売も繁盛し、人間交際の事物、具足して、あたかも千艘の軍艦に相応すべき有様に至て、始て千艘の軍艦あるべきなり。(略)他の諸件に比して割合なかるべからず。割合に適さざれば、利器も用を為さず。(略)けだし巨砲大艦は以て巨砲大艦の敵に敵すべくして、借金の敵には敵すべからざるなり。今、日本にても、武備を為すに、砲艦は勿論、小銃軍衣に至るまでも、百に九十九は外国の品を仰がざるはなし。あるいは我製造の術、いまだ開けざるがためなりというといえども、その製造の術のいまだ開けざるは、即ち国の文明のいまだ具足せざる証拠なれば、その具足せざる有様の中に、独り兵備のみを具足せしめんとするも、事物の割合を失して実の用には適せざるべし。故に今の外国交際は、兵力を足して以て維持すべきものにあらざるなり” (『文明論之概略』巻六「第十章 自国の独立を論ず」)
これは、中国の洋務論や中体西洋論を近代化の道に非ずとして否定した内容(福沢本人がそう意識していたがどうかは別として)である。
“無産の山師が外国人の元金を用いて国中に取引を広くし、その所得をば悉皆金主の利益に帰して、商売繁盛の景気を示すものあり。あるいは外国に金を借用して、その金を以て外国より物を買入れ、その物を国内に排列して、文明の観を為すものあり。石室、鉄橋、船艦、銃砲の類、これなり。我日本は文明の生国にあらずして、その寄留地というべきのみ。結局この商売の景気この文明の観は国の貧を招て、永き年月の後には、必ず自国の独立を害すべきものなり” (同上)
福沢は、だから文明(西洋の文明)を丸ごと日本に導入し、日本の旧来の文明と入れ替えなければならないと言うのである。
しかし福沢は日本が何から何まで西洋のごとくあれと主張しているわけでもなさそうである。
彼は晩年、『福翁自伝』で明治維新(西洋化)の成果を裏返しに語って、「国勢の大体より見れば、富国強兵、最大多数最大幸福の一段に至れば、東洋国は西洋国の下におらねばならぬ。国勢の如何は果たして国民の教育より来るものとすれば、双方の教育法に相違がなくてはならぬ。ソコデ大体東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較してみるに、東洋になきものは、有形において数理学(自然科学、なかんずく数学と物理学)と、無形においては独立心と、この二点である」と、要約している。福沢の一生はまさに、それまでの日本に欠けたこの二つを近代日本にもたらす努力のそれであったし、この言葉をさらに裏返せば、福沢にとっての明治維新の価値はそこにあるということであり、そして福沢がこの点に関して満足していたことは、日清戦争の日本勝利に「愉快ともありがたいとも言いようがない」と泣いたことで明らかである(昨年12月6日欄福沢諭吉「文明論之概略」「通俗国権論」「通俗国権論二編」および「通俗民権論」参照)。
ここで福沢は文明化(西洋化・近代化)の鍵は教育にあると言っている。極端にいえばだが、福沢は、日本の文明化は国民教育さえ(制度はもちろん教育内容も含めて)改革できれば、あとのことは(政治体制の変革も)、遅かれ早かれ自然に随いてくると考えていたのかもしれない。
とすれば数理学とは単なる科目をだけ意味しているのではなく、それを成り立たせている思考様式を指していると考える方が良いだろう。ここで言う思考様式とは、「観察と推理と実験が相まって形成される」と、リチャード・ファインマンが『ファインマン物理学 Ⅰ 力学』(2002年12月30日欄)の冒頭で定義するところの、科学的思考様式である。推論は、帰納と演繹である。
福沢の言う“独立心”だが、福沢のほかの著作や発言からわかるように、これには個人の独立(民権)と国家の独立(国権)の二つの意味があり、さらに個人の独立は、自由と平等と権利から成っている。中国の変法論は、国の独立がもっぱらで、個人の独立の要素が薄い。現在の中国人も、中国の民主化を論じる時には必ずといっていいほど、個人の自由・権利・平等の欠落を問題とする。
ところで、“数理学”に関してはどうだろうか。今日の二冊はそのために読んだのである。
試みに、変法論の代表的な二人の理論家、康有為の『大同書』と譚嗣同の『仁学』から、“理”または“道理”もしくは科学技術に関する言及をひろってみることにする。
●康有為 『大同書』
“そもそも大地の文明というものは、実に人類が自分で開いたおかげだ。もし人類がすこしでも減れば、その聡明さも同時に減少して、ふたたび野蛮になるだろう。まして、男女の交わりを禁じて人類の種を絶つということなら、なおのことだ。もし、仏教の道に従うなら、大地十五億の繁栄せる人類は、五十年足らずで完全に絶滅しよう。百年後には、大地の繁盛していた都会、壮麗な宮殿、鉄道・電線の交通手段、精奇な器具はみな廃棄壊滅し、草木がぼうぼうと繁茂するようになる。そして全地はまったく、灌木や森林が茂り、鳥獣や昆虫が縦横にとびかうだけになる。こういうことは、行ってはならない事であるだけでなく、そのようにする道理はぜったいにないのである” (「己部 家界を去って天民となる」 前者155頁)
最後の一文の原文は「是れ独り行ふべからざる事のみならず、亦た必ずこれが理なし」 。“道理”ではなく“理”であるが、いずれにせよあきらかに儒教の“理”である。倫理的規範である。
●譚嗣同 『仁学』
“算学には深くなくても、幾何学には習熟しないといけない。事物を分析し事物を処理するすじみちがこれにそなわっているのだ” (後者 22頁)
“西洋人の格致の学こそは、蒙をひらいてみせてくれる” (後者 83頁)
“(論理学は)学問の基礎である。論理学から数学、数学は論理学をかたちに表したもの。数学から格致、格致は論理学と数学を実用化したもの” (同 84頁)
“(国家救済の)議論は数かずあるが、要約して挙げれば三つあって、それは学であり政であり教である。学にも数かずあるが、きわめつけは格致の精密化である。政にも数かずあるが、きわめつけは民権を興すこと。教となるとことにむつかしい。自他それぞれに流儀があって一つにまとめられないが、まずは仏教以外では統一できないだろう。学から進んでゆく順次をいえば、格致が学の基礎であり、それから政事に及び、そのうえで教の神髄をうかがうことができる” (同 185頁)
福沢の主張とほぼ同じである。
清末の中国では物理学および自然科学を「格致」と呼んでいた。もともとは「窮理」とおなじく儒教(とくに朱子学および陽明学。宋学)の言葉、「格物致知―物に格(いたり)て知を致す―」で、格も致も窮と同義、つまり「きわめる」という意味である。
政治体制改革の前に自然科学系の学問、それも数学と物理学の普及を置くのは福沢と同じである。最後に宗教を持ってくるところも表面的にいえばではあるけれども福沢と同じといえなくもない。ただし福沢は社会道徳の源泉としての宗教の効用を認めただけだったが譚嗣同の場合科学的知識はやはり悟りへの手段らしい。
宋以後の儒学には客観的認識を重視する側面――博物学的自然観察およびそれに基づく推論――もあることはあった。ただし実験による検証の発想はない。禅の影響が強い宋学では客観的認識は主観的な悟りの手段であって、最終的にはそれに収斂されるべきものである。言い換えれば信念と事実が食い違うときは事実のほうを無視するということもありうるのではないか。
それはさておいても両者で確実に一つ異なるところがある。それは譚嗣同が使っている「格致」という語が、福沢の使う――あるいは当時の日本語における――「窮理」とは違い、今でいうところの博物学をも含んでいた点である(譚嗣同個人について言えばそうではないようだが)。つまり、「格致」には観察と推論は不可欠とされるが実験については必ずしもそうではなかったということになる。
(明徳出版社 1976年11月)
(岩波書店 1994年3月第2刷)