書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

平川祐弘 『西欧の衝撃と日本』 

2005年02月21日 | 日本史
 第八章「非西洋の近代化と焦り――国民感情と国家理性――」で魯迅『熱風』「随感録三十八」の存在を教えられる。忘れていた。読み返して笑い、ついで索然とする。
 いまから図書館に返却しなければならないのでここに書き写している暇がない。ご興味のあるかたはこの書はもとより、ここでは部分的に引用されているだけの魯迅の原文をご自身でお読みになられることをお薦めする。岩波書店の『魯迅選集』(1964年4月改訂版)なら第6巻の24頁から28頁だ。ただし引用部分に限って言えば増田渉訳より平川訳のほうが面白い。

(講談社 1985年10月学術文庫版)

実藤恵秀 『中国人 日本留学史』 

2005年02月20日 | 東洋史
 今月18日「坂出祥伸 『大同書』/譚嗣同著 西順蔵・坂元ひろ子訳注『仁学 清末の社会変革論』」で触れた格致という語について、この書に更に詳しい言及があった。
 清末に日本語で書かれた西洋諸科学の書籍が中国人日本留学生の手によって大量に中国語へと重訳され、中国国内の学校の教科書に使われた。
 そのなかにイギリスの伝蘭雅著『格致須知』というシリーズ本があるが(“須知”は概説、入門というほどの意味)、このシリーズには物理学のほか『動物須知』『植物須知』といった博物学の書籍も入っている。(本書第5章「留日学生の翻訳活動」273-275頁に引く、国民政府教育部編『教育年鑑』所載「教科書之発刊概況――1868~1918――年」の1903・光緒29年条)

 なお実藤氏の研究によれば、日清戦争後の1896年に最初の留学生13名が日本へ来て以来、日露戦争後には8000人を数えた中国人日本留学生が1937年の“支那事変”の開始ですべて引き上げるまでの42年間に、2602種の日本書(外国書の翻訳を含む)が中国語訳され中国へ紹介された。内訳は以下のとおり。

 宗教・哲学     113種
 文学・語学     324種
 教育         140種
 政治・法律     374種
 経済・社会問題  374種
 地理・歴史     344種
 自然科学       347種
 実業         177種
 医学         193種
 軍事         132種
 雑類          84種 
 合計       2692種 (事変後に出版された2種を含む)
  (本書291頁に引く実藤恵秀編『中訳日文書目録』、国際文化振興会、1945年2月より)

“「満州事変」以前は、文化系の研究をする ものが多かったが,「満州事変」以後は空理空論では救国はできない,という空気が生じ,留学生も自然科学の研究というほうに かたむいていった。日本書の翻訳も したがって,自然科学の方面に中心が おかれる ようになり,巨大な専門書が 翻訳される ようになった。(略)このころは,自然科学の もの だけを翻訳していた わけではない。文芸方面・社会科学方面の ものも たくさん訳され,ふたたび 明治末期の ような 日本書漢訳の隆盛を むかえたのであった。ただ「満州事変」以後は,自然科学書の比率が 急に高くなった ことが特徴的なので ある” (第5章 291頁)

(くろしお出版 1960年3月)


実藤恵秀 『中国新文学発展略史』 

2005年02月20日 | 東洋史
“以上、みてきたように、中国文壇の大半は日本留学生が建築し、中国はえぬきの作家でも、日本留学の文学者のえいきょうを多分にうけたし、はえぬきの作家も、名をなした後は、日本に行って来なければならない時代もあった。/一時は先生であった日本文学が、戦後は中国の文学をまなばなければならなくなった。/それは文学だけではない。一等国といわれた日本が、四等国となり、「ねむれる豚」といわれた中国が、アジア最高の国、世界の大強国のひとつになった。/この転換点は、いつであるかといえば、第二次大戦中とみることができよう。これを界に、中国は躍進した。日本は、停頓したか、または逆転した。/なにゆえに、日本文学と中国文学とは転換したかといえば、おそらく、中国では「文芸講話」が出たからであろう” (第十章「日本と中国新文学」、「けつろん」310頁)
 
 著者は『中国人 日本留学史』の最後に、自分が戦争中いかに国や軍の圧力に屈して迎合的な中国観を述べたかを縷々懺悔している。「けつろん」の中国礼賛はその一変型か。
 ところでこの人は本来一種の国語簡略化論者らしく、『中国人 日本留学史』の引用文から窺えるように分かち書きや平仮名を多用する。これは例文は引かなかったが『日本雑事詩』(今年1月19日欄)もそうである。この『中国新文学発展略史』でさえ、ほぼ通常の日本語の表記法で書かれているけれども「結論」ではなく「けつろん」だったりする。しかし正直に言ってこの人の書き方は、かえって非常に読みずらい。

(三一書房 1955年10月)

平川祐弘 『中国エリート学生の日本観』 

2005年02月20日 | 東洋史
 エッセイ集で、表題になっている「中国エリート学生の日本観」は最初に置かれたそのうちのひとつにすぎなかった。「芥川の『盗み癖』」のほうが面白かった。その他、島田謹二『日本における外国文学』(朝日新聞社)および小堀桂一郎『森鴎外の世界』(講談社)の存在を教えられたのは有意義。

(文藝春秋 1997年5月)

橋田信介著 橋田幸子編 『世界の戦場でバカと叫ぶ』 

2005年02月19日 | 政治
 国籍、民族、人種に拘わらずバカをバカと叫んだこの人は、私の同志である。
 「命なんざ、使うときに使わねば意味がない」という、司馬遼太郎氏の作中人物の科白が好きだったところにも激しく同感する(これは坂本竜馬だったか、河井継之助だったか)。
 そして幕末の志士のような夫が戦場へと“出征”するのを常に取り乱さず見送った妻の幸子女史は、由緒正しい武家の奥方のようだ。 

 “万が一、突発事故で亡くなったとしても、「自分で行きたい、と願ってそこへ行き、そこで命をまっとうした」のであれば、それはそれで・・・・・・。/「行きたい、と思っているのに、家族に行くなとすがりつかれたから行けなかった・・・・・・」/そっちのほうが、よっぽど“みっともない”生きざまだと思いませんか?” (「戦場記者の妻は、こう思う」 2003年5月1日、43頁)

 女史の言行は、鶴ヶ城籠城戦時のある種の会津藩女性を想わせる。たとえば山本八重子や山川操(もっともこの時は二人ともまだ未婚だったが)。

(アスコム 2004年12月)

司馬遼太郎 『司馬遼太郎が考えたこと』 13

2005年02月19日 | 人文科学
 収録されているエッセイの年代は1985年1月から1987年5月まで。この頃からこの人の文章において、社会的・時事的問題についての感想や日本や世界の未来にむけての意見――およびその裏返しとしての現代日本への憂慮と焦燥――が、はっきりそのままの形で現れてくるようである。冒頭の「バスクへの盡きぬ回想」など、その代表的なものである。

(新潮社 2002年10月)

神田千里 『日本の中世 11 戦国乱世を生きる力』 

2005年02月19日 | 日本史
 この巻はとても面白い。
 たとえば戦国時代の軍隊のかなりの部分が、飢饉や凶作によって食うことのできなくなった農民たちであるということ、たとえば応仁の乱前夜に都へ「流民」となってやってきた彼等が土一揆や足軽となったという事実。戦国大名、とくに秀吉の刀狩りは、社会の平和と秩序維持のため、そしてみずからを唯一のその担い手とするために、自力救済の風潮を否定するためのものであり、百姓(平民)の自治と自力の力量を剥奪するためのものではなかったという解釈。そして自力救済こそが中世の特質であったという観点。
 ただし第一の飢饉と凶作による流民の発生については、人口増に見合わない農業生産高による食糧不足の結果という面からの解釈も可能ではないかと思う。日本の人口は、14ないし15世紀から増加に向かったらしい(鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』、講談社、2000年3月)。

(中央公論新社 2002年9月)

坂出祥伸 『大同書』 / 譚嗣同著 西順蔵・坂元ひろ子訳注 『仁学 清末の社会変革論』 

2005年02月18日 | 東洋史
 まず最初に知識の整理をしたい。

 19世紀中葉から20世紀初頭にかけての中国清末思想(=国家の独立維持・強化を目的とする近代化思想)は、洋務論(中体西用論)→変法論→革命論の順を追って推移する。
 洋務論は中国の伝統文化(道)を根本(体)とし、西洋の有用な科学技術(というよりその成果たる機械、それも兵器)だけを取り入れるという主張である。
 変法論は1894-95年の日清戦争で、ほぼ同時期に同様の目的をもって近代化しつつあった日本に破れたことにより洋務論が破産したことを受けて、日本に倣って西洋の科学技術の背景となっている制度(憲法、国会、法律など)をも取り入れなければならないとする主張である。具体的には立憲君主国家を目指した。変革の正当化には春秋公羊学が用いられた。中国文明より後発の西洋文明のほうが部分的にせよ優れているという認識の背後には厳復などによって翻訳紹介されて当時中国に流入してきた社会進化論の影響がある。西洋に倣って改革すべきと目された制度が政治面のそれに集中しているのが特徴である。
 革命論は康有為、梁啓超、譚嗣同らによる変法維新運動の失敗により、漢民族意識とともに台頭してきた、清朝そのものを倒して体制ごと変革しなければ中国の強化はできないとする考え方である。
 洋務論もしくは中体西用論は、日本の幕末において佐久間象山ほかが唱えた“和魂洋才”論に相当するものととりあえず考えておく。
 変法論は明治維新に範を採ったものと、主張者(康有為)みずからが認めている。しかし中国の体制改革は明治維新と比較すると政治面のそれに偏っている。日本の場合は、基本的に全面的西欧化つまり社会全体の西洋文明化を、すくなくとも明治初期は目指していた。

 日本の徹底した(西洋)文明化を唱えた福沢諭吉は、日本の変法論者と見なすことができよう。
 福沢は軍事面の近代化を枝葉末節のこととして重視していなかった。彼は『文明論之概略』で、英国が千艘の軍艦を持っているから日本は千艘の軍艦を揃えればそれで対抗できると思うのは、全体を見ない言であるとした。「文明にあらざれば独立は保つべからず」。なぜか。

“英に千艘の軍艦あるは、ただ軍艦のみ千艘を所持するにあらず、千の軍艦あれば、万の商売船もあらん。万の商売船あれば、十万人の航海者もあらん。航海者を作るには、学問もなかるべからず。学者も多く、商人も多く、法律も整い、商売も繁盛し、人間交際の事物、具足して、あたかも千艘の軍艦に相応すべき有様に至て、始て千艘の軍艦あるべきなり。(略)他の諸件に比して割合なかるべからず。割合に適さざれば、利器も用を為さず。(略)けだし巨砲大艦は以て巨砲大艦の敵に敵すべくして、借金の敵には敵すべからざるなり。今、日本にても、武備を為すに、砲艦は勿論、小銃軍衣に至るまでも、百に九十九は外国の品を仰がざるはなし。あるいは我製造の術、いまだ開けざるがためなりというといえども、その製造の術のいまだ開けざるは、即ち国の文明のいまだ具足せざる証拠なれば、その具足せざる有様の中に、独り兵備のみを具足せしめんとするも、事物の割合を失して実の用には適せざるべし。故に今の外国交際は、兵力を足して以て維持すべきものにあらざるなり” (『文明論之概略』巻六「第十章 自国の独立を論ず」)

 これは、中国の洋務論や中体西洋論を近代化の道に非ずとして否定した内容(福沢本人がそう意識していたがどうかは別として)である。

“無産の山師が外国人の元金を用いて国中に取引を広くし、その所得をば悉皆金主の利益に帰して、商売繁盛の景気を示すものあり。あるいは外国に金を借用して、その金を以て外国より物を買入れ、その物を国内に排列して、文明の観を為すものあり。石室、鉄橋、船艦、銃砲の類、これなり。我日本は文明の生国にあらずして、その寄留地というべきのみ。結局この商売の景気この文明の観は国の貧を招て、永き年月の後には、必ず自国の独立を害すべきものなり” (同上)

 福沢は、だから文明(西洋の文明)を丸ごと日本に導入し、日本の旧来の文明と入れ替えなければならないと言うのである。

 しかし福沢は日本が何から何まで西洋のごとくあれと主張しているわけでもなさそうである。
 彼は晩年、『福翁自伝』で明治維新(西洋化)の成果を裏返しに語って、「国勢の大体より見れば、富国強兵、最大多数最大幸福の一段に至れば、東洋国は西洋国の下におらねばならぬ。国勢の如何は果たして国民の教育より来るものとすれば、双方の教育法に相違がなくてはならぬ。ソコデ大体東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較してみるに、東洋になきものは、有形において数理学(自然科学、なかんずく数学と物理学)と、無形においては独立心と、この二点である」と、要約している。福沢の一生はまさに、それまでの日本に欠けたこの二つを近代日本にもたらす努力のそれであったし、この言葉をさらに裏返せば、福沢にとっての明治維新の価値はそこにあるということであり、そして福沢がこの点に関して満足していたことは、日清戦争の日本勝利に「愉快ともありがたいとも言いようがない」と泣いたことで明らかである(昨年12月6日欄福沢諭吉「文明論之概略」「通俗国権論」「通俗国権論二編」および「通俗民権論」参照)。
 ここで福沢は文明化(西洋化・近代化)の鍵は教育にあると言っている。極端にいえばだが、福沢は、日本の文明化は国民教育さえ(制度はもちろん教育内容も含めて)改革できれば、あとのことは(政治体制の変革も)、遅かれ早かれ自然に随いてくると考えていたのかもしれない。
 とすれば数理学とは単なる科目をだけ意味しているのではなく、それを成り立たせている思考様式を指していると考える方が良いだろう。ここで言う思考様式とは、「観察と推理と実験が相まって形成される」と、リチャード・ファインマンが『ファインマン物理学 Ⅰ 力学』(2002年12月30日欄)の冒頭で定義するところの、科学的思考様式である。推論は、帰納と演繹である。

 福沢の言う“独立心”だが、福沢のほかの著作や発言からわかるように、これには個人の独立(民権)と国家の独立(国権)の二つの意味があり、さらに個人の独立は、自由と平等と権利から成っている。中国の変法論は、国の独立がもっぱらで、個人の独立の要素が薄い。現在の中国人も、中国の民主化を論じる時には必ずといっていいほど、個人の自由・権利・平等の欠落を問題とする。

 ところで、“数理学”に関してはどうだろうか。今日の二冊はそのために読んだのである。
 試みに、変法論の代表的な二人の理論家、康有為の『大同書』と譚嗣同の『仁学』から、“理”または“道理”もしくは科学技術に関する言及をひろってみることにする。

 ●康有為 『大同書』
 “そもそも大地の文明というものは、実に人類が自分で開いたおかげだ。もし人類がすこしでも減れば、その聡明さも同時に減少して、ふたたび野蛮になるだろう。まして、男女の交わりを禁じて人類の種を絶つということなら、なおのことだ。もし、仏教の道に従うなら、大地十五億の繁栄せる人類は、五十年足らずで完全に絶滅しよう。百年後には、大地の繁盛していた都会、壮麗な宮殿、鉄道・電線の交通手段、精奇な器具はみな廃棄壊滅し、草木がぼうぼうと繁茂するようになる。そして全地はまったく、灌木や森林が茂り、鳥獣や昆虫が縦横にとびかうだけになる。こういうことは、行ってはならない事であるだけでなく、そのようにする道理はぜったいにないのである” (「己部 家界を去って天民となる」 前者155頁)

 最後の一文の原文は「是れ独り行ふべからざる事のみならず、亦た必ずこれが理なし」 。“道理”ではなく“理”であるが、いずれにせよあきらかに儒教の“理”である。倫理的規範である。

 ●譚嗣同 『仁学』
 “算学には深くなくても、幾何学には習熟しないといけない。事物を分析し事物を処理するすじみちがこれにそなわっているのだ” (後者 22頁)
 “西洋人の格致の学こそは、蒙をひらいてみせてくれる” (後者 83頁)
 “(論理学は)学問の基礎である。論理学から数学、数学は論理学をかたちに表したもの。数学から格致、格致は論理学と数学を実用化したもの” (同 84頁)
 “(国家救済の)議論は数かずあるが、要約して挙げれば三つあって、それは学であり政であり教である。学にも数かずあるが、きわめつけは格致の精密化である。政にも数かずあるが、きわめつけは民権を興すこと。教となるとことにむつかしい。自他それぞれに流儀があって一つにまとめられないが、まずは仏教以外では統一できないだろう。学から進んでゆく順次をいえば、格致が学の基礎であり、それから政事に及び、そのうえで教の神髄をうかがうことができる” (同 185頁)

 福沢の主張とほぼ同じである。
 清末の中国では物理学および自然科学を「格致」と呼んでいた。もともとは「窮理」とおなじく儒教(とくに朱子学および陽明学。宋学)の言葉、「格物致知―物に格(いたり)て知を致す―」で、格も致も窮と同義、つまり「きわめる」という意味である。
 政治体制改革の前に自然科学系の学問、それも数学と物理学の普及を置くのは福沢と同じである。最後に宗教を持ってくるところも表面的にいえばではあるけれども福沢と同じといえなくもない。ただし福沢は社会道徳の源泉としての宗教の効用を認めただけだったが譚嗣同の場合科学的知識はやはり悟りへの手段らしい。
 宋以後の儒学には客観的認識を重視する側面――博物学的自然観察およびそれに基づく推論――もあることはあった。ただし実験による検証の発想はない。禅の影響が強い宋学では客観的認識は主観的な悟りの手段であって、最終的にはそれに収斂されるべきものである。言い換えれば信念と事実が食い違うときは事実のほうを無視するということもありうるのではないか。
 それはさておいても両者で確実に一つ異なるところがある。それは譚嗣同が使っている「格致」という語が、福沢の使う――あるいは当時の日本語における――「窮理」とは違い、今でいうところの博物学をも含んでいた点である(譚嗣同個人について言えばそうではないようだが)。つまり、「格致」には観察と推論は不可欠とされるが実験については必ずしもそうではなかったということになる。
 
(明徳出版社 1976年11月)
(岩波書店 1994年3月第2刷)

ジョイス・キャロル・オーツ著 神戸万知訳 『アグリーガール』 

2005年02月17日 | 文学
 ここ数日、風邪を引いているのを押してこの欄を書いていたらちょっと疲れた。今晩は前から気になっていた青春小説(児童文学あるいはヤングアダルト文学という分類になるらしい)を読んで過ごすことにした。
 今は内容を説明する気力がない。たとえばこちらをご覧下さい。
 http://www.book-times.net/200405/04.htm
 この紹介文に何か付け足すとすれば、
 “「事なかれ主義の学校の教師たちと、世間体ばかりの親と、つるんでいつも集団で動いていて何も考えないクラスメートたちは最低だ!」と、大人の読者が読んでも心底からそう思い、そしてそのあとそれが子供から大人になるさなかの不安定で過剰な自意識のなせるわざだった部分も大きいことをあらためて悟って、大人に戻れる作品”。

(理論社 2004年5月)

平川祐弘 『和魂洋才の系譜 内と外からの明治日本』 

2005年02月16日 | 日本史
 中学生の時に読んだのを再読したのだが、中身はすっかり忘れていた。 
 1971年に出版されたこの書は、まさに不朽の名著という言葉があてはまる。日本の近代化における精神史を考える時にこの研究は避けて通れない。内外の関係資料や人物の情報が満載である。
 しかし、板倉聖宣・重弘忠晴著『日本の戦争の歴史 明治以降の日本と戦争』(今月14日欄)を読んだあとでは、「外国産の主義や思想を一つの権威として盲目的に奉ずることもなく、また逆に偏狭な国家主義におちいることもなく、世界の中における日本の位置を具体的・客観的に見つめつつ将来へ向かって進」んだ(「和魂洋才の系譜 はじめに」本書9頁)明治人の代表例として森鴎外を取り上げたのは正しかったのかという核心の一点について、疑問を抱いてしまうのである。
 "戦争の病死者という数字のなかに、〈明治以降の日本の科学者のどんな人、どんな制度が創造性を発揮し、だれがその妨害者だったのか〉という歴史の真実がかくされていたのです" (『日本の戦争の歴史 明治以降の日本と戦争』 80頁)
 日本軍における脚気の対処において、森はすこしも“創造性を発揮”することなく、“外国産の主義や思想を一つの権威として盲目的に奉ずる”ことに終始したのである(この一件は平川氏のこの著作では取り上げられていない)。
 他にもっとふさわしい人物がいたのではないかと思える。

(河出書房新社 1987年3月新装版)