中国は今でも民族の思考洋式においては近代化に成功していないと言えるのではなかろうか。
この問いは、こうも言い換えることができる。変法維新運動に成功しなかった中国は結局、現在にいたって洋務運動に――軍事面だけでなく経済面においてもだが――成功した段階と言えるのではないのかと。
中国人の言論、とくに反日言論の多くに共通する、主観的認識が客観的事実に優先する旧中国そのままの伝統的な思考様式がその証拠である。「中国の特色を持った社会主義」など、いわばいまだに中体西用論の段階の発想なのではないだろうか。
――というようなことを雑駁に考えつつ、洋務論(中体西用論)と変法論の主要な言論を翻訳収録してあるこの書から、論者の“数理学”に関わる言及箇所を、とりあえずは拾ってみることにした。
●洋務論
馮桂芬 「西学を採るの議」 (野村浩一訳)
“いま、西学を採り入れようとするならば、広東、上海に、それぞれ翻訳公所を設け、近在の十五才以下の聡明な文童(科挙試験準備中の児童)を選び、給費を倍にし、寄宿舎に住まわせて学習させ、西洋人を招聘して諸国の語言文字を学ばせ、また国内の高名の師を招聘して、経学、史学などを学ばせ、さらに合せて算学を学習させるべきである” (55頁)
“一切の西学は、みな算学から出発している。西洋人は、十歳以上になると算学を学ばないものはない。いま、西学を採り入れようとするなら、算学を学ばないわけにはいかない” (同上)
鄭観応 「盛世危言」 (野村浩一訳)
“『大学』の八条目のうち第五の「格致」の一伝の部分が亡失し、『周礼』から「冬官」の一冊が欠如してのち、古人の名、物、象、数の学は、流徙してヨーロッパに入り、その工芸の精妙なることは、ついに中国のはるかに及ばないところとなった。けだし、我は、その本に専心し、彼は、その末を追求したのであり、我は、その精髄を明らかにし、彼は、その粗を手にしたのであり、我は、事物の理を窮め、彼は万物の質を究明したのである” (「道器」、71頁)
張之洞 「勧学篇」 (野村浩一訳)
“各省、各道、各府、各州、各県は、すべて学堂〔注・新制の学校〕を設立し、首都・省城には大学堂、道・府には中学堂、州・県には小学堂を設置すべきである。(略)小学堂では四書を学び、中国の地理、中国史の大略、及び算数、図画、格致の初歩に通ずる。中学堂の各教科は、小学堂より程度が高く、さらに五経を学び、『通鑑〔注・資治通鑑〕』を学び、政治学を学び、外国語を学ぶことがつけ加わる。大学堂では、これらをいっそう深く習得するのである” (「外篇第三」、112頁)
“学堂の方針にはおよそ五つの要点がある。(略)
一、新学、旧学をあわせて学ぶ。四書五経、中国の歴史・歴史・制度・地図は旧学であり、西政・西芸(西洋の技術)・西史は新学である。旧学は体であり、新学は用である。
一、政と芸をあわせて学ぶ。学制・地理・財政・税制・軍事・法律・工業政策・商業政策は、西政であり、数学、製図、鉱業、医術、音響学、光学、化学、電気学は、西芸である。(略)小学堂では、まず芸を学んでそれから政を学ぶ。大学堂、中学堂では、まず政を学んで、それから芸を学ぶ。(略)およそ時局を救い、国のために謀る方策についていえば、政は、芸よりは、はるかに急務である。しかしながら、西政を講究するものは、また西芸の効用についても、おおよそ考察しておくべきであって、そうしてこそはじめて西政のねらいを知ることができる。
一、少年を教育すべきこと。数学を学ぶには、思考力の鋭いものが必要であり、(略)格致、化学、製造を学ぶには、素質、鋭敏なものが必要である。(略) 中年以上の人間は、智力、精力はもはや減退し、課業をつんでも往々にして合格できず、しかもそれまでの考え方が深く染みこんでいるので、虚心に受け入れることが難しい。(後略)” (同、114-115頁)
●変法論
康有為 「大同書」
→今月18日「坂出祥伸『大同書』/ 譚嗣同著 西順蔵・坂元ひろ子訳注『仁学 清末の社会変革論』」を見よ。
譚嗣同 「仁と学」
→ 同上。
(岩波書店 1977年4月)
この問いは、こうも言い換えることができる。変法維新運動に成功しなかった中国は結局、現在にいたって洋務運動に――軍事面だけでなく経済面においてもだが――成功した段階と言えるのではないのかと。
中国人の言論、とくに反日言論の多くに共通する、主観的認識が客観的事実に優先する旧中国そのままの伝統的な思考様式がその証拠である。「中国の特色を持った社会主義」など、いわばいまだに中体西用論の段階の発想なのではないだろうか。
――というようなことを雑駁に考えつつ、洋務論(中体西用論)と変法論の主要な言論を翻訳収録してあるこの書から、論者の“数理学”に関わる言及箇所を、とりあえずは拾ってみることにした。
●洋務論
馮桂芬 「西学を採るの議」 (野村浩一訳)
“いま、西学を採り入れようとするならば、広東、上海に、それぞれ翻訳公所を設け、近在の十五才以下の聡明な文童(科挙試験準備中の児童)を選び、給費を倍にし、寄宿舎に住まわせて学習させ、西洋人を招聘して諸国の語言文字を学ばせ、また国内の高名の師を招聘して、経学、史学などを学ばせ、さらに合せて算学を学習させるべきである” (55頁)
“一切の西学は、みな算学から出発している。西洋人は、十歳以上になると算学を学ばないものはない。いま、西学を採り入れようとするなら、算学を学ばないわけにはいかない” (同上)
鄭観応 「盛世危言」 (野村浩一訳)
“『大学』の八条目のうち第五の「格致」の一伝の部分が亡失し、『周礼』から「冬官」の一冊が欠如してのち、古人の名、物、象、数の学は、流徙してヨーロッパに入り、その工芸の精妙なることは、ついに中国のはるかに及ばないところとなった。けだし、我は、その本に専心し、彼は、その末を追求したのであり、我は、その精髄を明らかにし、彼は、その粗を手にしたのであり、我は、事物の理を窮め、彼は万物の質を究明したのである” (「道器」、71頁)
張之洞 「勧学篇」 (野村浩一訳)
“各省、各道、各府、各州、各県は、すべて学堂〔注・新制の学校〕を設立し、首都・省城には大学堂、道・府には中学堂、州・県には小学堂を設置すべきである。(略)小学堂では四書を学び、中国の地理、中国史の大略、及び算数、図画、格致の初歩に通ずる。中学堂の各教科は、小学堂より程度が高く、さらに五経を学び、『通鑑〔注・資治通鑑〕』を学び、政治学を学び、外国語を学ぶことがつけ加わる。大学堂では、これらをいっそう深く習得するのである” (「外篇第三」、112頁)
“学堂の方針にはおよそ五つの要点がある。(略)
一、新学、旧学をあわせて学ぶ。四書五経、中国の歴史・歴史・制度・地図は旧学であり、西政・西芸(西洋の技術)・西史は新学である。旧学は体であり、新学は用である。
一、政と芸をあわせて学ぶ。学制・地理・財政・税制・軍事・法律・工業政策・商業政策は、西政であり、数学、製図、鉱業、医術、音響学、光学、化学、電気学は、西芸である。(略)小学堂では、まず芸を学んでそれから政を学ぶ。大学堂、中学堂では、まず政を学んで、それから芸を学ぶ。(略)およそ時局を救い、国のために謀る方策についていえば、政は、芸よりは、はるかに急務である。しかしながら、西政を講究するものは、また西芸の効用についても、おおよそ考察しておくべきであって、そうしてこそはじめて西政のねらいを知ることができる。
一、少年を教育すべきこと。数学を学ぶには、思考力の鋭いものが必要であり、(略)格致、化学、製造を学ぶには、素質、鋭敏なものが必要である。(略) 中年以上の人間は、智力、精力はもはや減退し、課業をつんでも往々にして合格できず、しかもそれまでの考え方が深く染みこんでいるので、虚心に受け入れることが難しい。(後略)” (同、114-115頁)
●変法論
康有為 「大同書」
→今月18日「坂出祥伸『大同書』/ 譚嗣同著 西順蔵・坂元ひろ子訳注『仁学 清末の社会変革論』」を見よ。
譚嗣同 「仁と学」
→ 同上。
(岩波書店 1977年4月)