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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

Sir Ernest Barker "Traditions of Civility: Eight Essays"

2013年12月19日 | 西洋史
 2013年10月05日同名欄より続き。
 著者が何を言っているのか、ようやく全編を通じて把握できた。米国部分の議論に、理屈は別として、納得するのに時間がかかった。
 つまりcivilizationでもcivilityでも、現象そのものを俯瞰的に眺めるならば「文明」、それを構成する人間から捉えれば「市民道」であり、そしてその根幹を成す要素は「公共意識」、何が「公共」であり「公共」でないかを測る基準をどこにおくかで「文明」と「市民道」はありかたを変える、さらにいえば、個人の概念がないところでは「文明」と「公共(の意識)」はありえるが、「市民道」は存在しない。

(Cambridge University Press, in March 2012, originally in 1948)

『荘子』「天下篇」に見える恵施の命題「歴物十事」に関する章炳麟の解釈について

2013年12月19日 | 東洋史
 章は、「歴物十事」の「歴」を「算」の意味と解釈し、西洋自然科学の知識に拠って、その一見詭弁である十の命題を真であるとした。ここで西洋の、しかも現代の自然科学の知識を用いる必然性も正当性もわからない。現代韓国語で『万葉集』を解くのと同じアナクロニズムを感じるのは私だけであろうか。
 「算」とは「かぞえる」の意味である。即ち章炳麟は物事を数量的に捉えるという意味だと言いたいのだろう(従来は「析」すなわち分析するの意味と取るのが普通だった)。だがそれは流石に無理ではないか。歴には暦と通用と見て、その意味もあるとされるが(古人の注釈における根拠のない説)、この命題の中に“数える”たぐいの命題は一つもない。つまり文脈を無視して章が無理矢理にそう訓んだだけである。
 良い形容を思いついた。「章炳麟の『荘子天下篇』「歴物十事」の解釈は、胡適の『中国哲学史大綱』巻上における『墨子経篇・経説篇』の解釈と同じくらい、好い加減である」。

湯志鈞編著 『戊戌変法人物傳稿』 上下

2013年12月19日 | 東洋史
 開巻「前言」が「劉少奇同志の曰く・・・」で始まるのだが、中身は当時の情況にもかかわらず驚くほどイデオロギー色が薄い。
 巻二に譚嗣同の伝がある。以下、目に付いたままに彼についての理系学問に関する言及・記述を書き抜いてみる。

 好今文経学 (29頁。原文繁体字、以下同じ)
 又喜読王夫之《船山遺書》,亦嘗致力自然科学之検討 (29頁)
 議立算学格致館 (31頁)
 
 また彼の著作『仁学』について、「中国の民主主義の伝統を表現したもの」であると同時に「西洋の自然科学・社会科学」を組み合わせたものという評価がなされている。前者については、墨子の「兼愛論」、さきに名の出た王夫之の「民族民主学説」が、その根拠となっている。

付記
 譚嗣同の伝が阮元と羅士琳の正続『疇人傳』に収められていないかと大学図書館へ行って確認してみたがなかった。この書を繙いたのはそのためである。
 しかし裏付を看てみれば『疇人傳』の正編は1799年(清嘉慶四)、続編でさえ1840(道光二十)刊で、1865年(同治四)生まれの譚が載っているはずはなかった。
 しかしそのあと続けて編まれた『疇人傳三編』(1886・光緒十一)には、正続を編んだ阮元と羅士琳の伝が入っている。同『四編』(1898・光緒二十四)には班昭の伝が収められる。『三編』から女性の伝が収められるようになった。
 だが相変わらず同年に死んだ譚嗣同は相変わらずない。入れてもおかしくないと思うのだが、清朝の下では国家の罪人だったから憚られたのだろうか。

(北京 中華書局 1961年4月)

劉知幾 『史通』 「内篇 自叙第三十六」

2013年12月19日 | 東洋史
 テキストは「維基文庫」から。

 劉知幾は、ここで、「少年の頃『古文尚書』を教えられたが、言葉が難しくて何を言っているのかわからなかった」と正直に書いている。「『春秋左氏伝』は(朗誦する際のリズムもよくて)よく解った」とも言っている。この感想はいろいろな示唆を含んでいるようで、とても面白い。
 また劉は続けて、『史記』『漢書』『三国志』などの史書に親しむことになるのだが、同時に科挙の勉強もしなければならず、歴史の研究は思うに任せなかったと、記している。
 彼が科挙の受験勉強を「揣摩」と表現しているところが、ますます面白い。
 この表現の特異さについては川勝義雄氏も『史学論集』(朝日新聞社 1972年)で指摘されている。私は、劉は、科挙は出題者の顔色を窺ってその望み通りの予め決まった答えを書くというだけで、何ら知的に興奮するところのない作業だから「揣摩憶測」の揣摩と形容したのであろうと、解釈している。
 やはり劉知幾と章学誠は似ているな。

杜預 「春秋左氏伝序」

2013年12月19日 | 料理
 冒頭、
 
 春秋者、魯史記之名也。記事者、以事繫日、以日繫月、以月繫時、以時繫年、所以紀遠近、別同異也。故史之所記、必表年以首事。年有四時。故錯舉以爲所記之名也。 (テキストは例えば『近代デジタルライブラリー』石川鴻斎述「春秋左氏伝講義」を見よ)

 とあって、時を示すに「何年+季節+何月+干支日」と記すのが『春秋』の体例であると杜預は指摘している。
 これは、逆に言えば、以後の文言文の書き手がこの時の表記法を取るならば、それは『春秋』(およびその注疏)の文体、即ち語彙・表現、そして必然的にその世界観に倣っている、もしくは束縛せられているということを意味する。読み手はそれを心得て対せねばならないであろうということだ。
 ――といいつつ、実のところ、「春秋左氏伝序」のそのあとは私にはよくわからない。そもそも杜預が前提として措定するような(本人は帰納的に見つけたと言いたげだが)、首尾論旨一貫した“大義”は、はたして『左氏伝』に、そしてその奥にある『春秋』に有ったのか。杜預自身、『左氏伝』は「其文緩、其旨遠(その文は緩く、その旨は遠し)」と認めているではないか。