「全釈漢文大系」3、集英社、1985年3月。
巻頭「序説」および『大学』『中庸』それぞれの「解説」において、著者は、厳密な学問的立場からこの良書に限ったこととして話を設定しているが、伝統中国におけるこれら古典の読解・注釈法について、「論理的解釈法」「心情的解釈法」「文献学的解釈法」「文字学的解釈法」と四分類したうえで、これらはすべて、「主観的」で「文献的な証拠があってのことではな」いと、ほぼ一言のもとに切り捨てている。
いわば中世的な思考法に基づくもので、いずれも孔子・孟子の教えを金科玉条とし、それとの関係において『大学』『中庸』を論じ、肯定したり否定したりしたにすぎないのであって、真に客観的に〔それらの〕成立を検討しようとしたわけではなかった。 (「大学 解説」本書16頁)
さらに、著者の観るところ、『大学』については今日の基準からみて評価に耐える文献学的な研究が始まるのは清朝考証学の勃興以後(正しくは戴震以後)だそうである。『中庸』に至っては、清代却って研究は停滞し、明治後の日本での近代科学的研究を俟つことになるらしい。
巻頭「序説」および『大学』『中庸』それぞれの「解説」において、著者は、厳密な学問的立場からこの良書に限ったこととして話を設定しているが、伝統中国におけるこれら古典の読解・注釈法について、「論理的解釈法」「心情的解釈法」「文献学的解釈法」「文字学的解釈法」と四分類したうえで、これらはすべて、「主観的」で「文献的な証拠があってのことではな」いと、ほぼ一言のもとに切り捨てている。
いわば中世的な思考法に基づくもので、いずれも孔子・孟子の教えを金科玉条とし、それとの関係において『大学』『中庸』を論じ、肯定したり否定したりしたにすぎないのであって、真に客観的に〔それらの〕成立を検討しようとしたわけではなかった。 (「大学 解説」本書16頁)
さらに、著者の観るところ、『大学』については今日の基準からみて評価に耐える文献学的な研究が始まるのは清朝考証学の勃興以後(正しくは戴震以後)だそうである。『中庸』に至っては、清代却って研究は停滞し、明治後の日本での近代科学的研究を俟つことになるらしい。