開いて吃驚。浅文言で書いてある。出版社は台湾だが、著者紹介によれば著者は中国(大陸)人で、1924年生まれの人だという。『康有為伝』の筆者でもあるが、当初思い出せなかった。
それはさておき、この書によれば、荘は二十歳の時に(乾隆三・1738)、科挙の第二段階である郷試に落ちた後、郷里で「算術」の学習に没頭したとある。更に二十三歳(乾隆六・1741)の項には、ふたたび科挙に落ち、『数理精蘊』という書籍を購って「推算(計算)」を研究したという。
『数理精蘊』とは、康煕帝の時代に編纂された「一部融中西數學於一体,內容豐富的『初等數學百科全書』」(維基百科「御製数理精蘊」項)である。 中を覗いたことがないから、私も此処に書かれている事柄以外はその妥当性をも含めて何も言えない。
手許にある狩野直喜『中国哲学史』、梁啓超『清代学術概論』(小野和子訳)、銭穆『中国近三百年学術史』には、いずれも荘存與についての紹介と評価が、程度の差はあれ有る。だがそれらはすべて公羊学者としての言及であり、数学者としてのそれはない。『清史稿』「疇人伝」にも彼の名は見えない。疇人とは天文学者にして暦学者であり、その必要上数学者でもあった者の謂であるから、荘が数学のみに関心を持ち、天文暦学にはなんらの業績がなかったからとすると、阮元や羅士琳が著した正続の『疇人伝』にも伝は立てられていない可能性が高い。
付記。
例えば梁啓超は、『清代学術概論』で荘存與の学風を(数学者ではなく公羊学者としてのそれ)、彼の『春秋正辞』を例に、「科学的帰納的研究法をも用いていて、論理は一貫し、判断は正確であって、清人の著述のなかではまことにもっとも価値ある創作である」(小野和子訳、平凡社東洋文庫)と評している。だが根拠となる引用や説明がなにもない。梁という人はこういうことをすぐ言いたがるところがあったように思える。「こういうこと」というのは、「西洋にいまあるものは中国にももともとあった」といった類いの国粋的見地からする発言である。この『清代学術概論』ではとくにそうだ。「清代の学術研究が科学的精神にあふれたものであった」(「三十二 科学の未発達」同書335頁)というおのれの結論に持って行きたいがための牽強付会ではないのか。
12月14日再付記。
正編・続編・三編(諸可寶撰)・四編(黃鍾駿撰)の『疇人伝』すべてに荘の伝はない。
(臺北 臺灣学生書局 2000年8月)
それはさておき、この書によれば、荘は二十歳の時に(乾隆三・1738)、科挙の第二段階である郷試に落ちた後、郷里で「算術」の学習に没頭したとある。更に二十三歳(乾隆六・1741)の項には、ふたたび科挙に落ち、『数理精蘊』という書籍を購って「推算(計算)」を研究したという。
『数理精蘊』とは、康煕帝の時代に編纂された「一部融中西數學於一体,內容豐富的『初等數學百科全書』」(維基百科「御製数理精蘊」項)である。 中を覗いたことがないから、私も此処に書かれている事柄以外はその妥当性をも含めて何も言えない。
手許にある狩野直喜『中国哲学史』、梁啓超『清代学術概論』(小野和子訳)、銭穆『中国近三百年学術史』には、いずれも荘存與についての紹介と評価が、程度の差はあれ有る。だがそれらはすべて公羊学者としての言及であり、数学者としてのそれはない。『清史稿』「疇人伝」にも彼の名は見えない。疇人とは天文学者にして暦学者であり、その必要上数学者でもあった者の謂であるから、荘が数学のみに関心を持ち、天文暦学にはなんらの業績がなかったからとすると、阮元や羅士琳が著した正続の『疇人伝』にも伝は立てられていない可能性が高い。
付記。
例えば梁啓超は、『清代学術概論』で荘存與の学風を(数学者ではなく公羊学者としてのそれ)、彼の『春秋正辞』を例に、「科学的帰納的研究法をも用いていて、論理は一貫し、判断は正確であって、清人の著述のなかではまことにもっとも価値ある創作である」(小野和子訳、平凡社東洋文庫)と評している。だが根拠となる引用や説明がなにもない。梁という人はこういうことをすぐ言いたがるところがあったように思える。「こういうこと」というのは、「西洋にいまあるものは中国にももともとあった」といった類いの国粋的見地からする発言である。この『清代学術概論』ではとくにそうだ。「清代の学術研究が科学的精神にあふれたものであった」(「三十二 科学の未発達」同書335頁)というおのれの結論に持って行きたいがための牽強付会ではないのか。
12月14日再付記。
正編・続編・三編(諸可寶撰)・四編(黃鍾駿撰)の『疇人伝』すべてに荘の伝はない。
(臺北 臺灣学生書局 2000年8月)