冒頭、
春秋者、魯史記之名也。記事者、以事繫日、以日繫月、以月繫時、以時繫年、所以紀遠近、別同異也。故史之所記、必表年以首事。年有四時。故錯舉以爲所記之名也。 (テキストは例えば『近代デジタルライブラリー』石川鴻斎述「春秋左氏伝講義」を見よ)
とあって、時を示すに「何年+季節+何月+干支日」と記すのが『春秋』の体例であると杜預は指摘している。
これは、逆に言えば、以後の文言文の書き手がこの時の表記法を取るならば、それは『春秋』(およびその注疏)の文体、即ち語彙・表現、そして必然的にその世界観に倣っている、もしくは束縛せられているということを意味する。読み手はそれを心得て対せねばならないであろうということだ。
――といいつつ、実のところ、「春秋左氏伝序」のそのあとは私にはよくわからない。そもそも杜預が前提として措定するような(本人は帰納的に見つけたと言いたげだが)、首尾論旨一貫した“大義”は、はたして『左氏伝』に、そしてその奥にある『春秋』に有ったのか。杜預自身、『左氏伝』は「其文緩、其旨遠(その文は緩く、その旨は遠し)」と認めているではないか。
春秋者、魯史記之名也。記事者、以事繫日、以日繫月、以月繫時、以時繫年、所以紀遠近、別同異也。故史之所記、必表年以首事。年有四時。故錯舉以爲所記之名也。 (テキストは例えば『近代デジタルライブラリー』石川鴻斎述「春秋左氏伝講義」を見よ)
とあって、時を示すに「何年+季節+何月+干支日」と記すのが『春秋』の体例であると杜預は指摘している。
これは、逆に言えば、以後の文言文の書き手がこの時の表記法を取るならば、それは『春秋』(およびその注疏)の文体、即ち語彙・表現、そして必然的にその世界観に倣っている、もしくは束縛せられているということを意味する。読み手はそれを心得て対せねばならないであろうということだ。
――といいつつ、実のところ、「春秋左氏伝序」のそのあとは私にはよくわからない。そもそも杜預が前提として措定するような(本人は帰納的に見つけたと言いたげだが)、首尾論旨一貫した“大義”は、はたして『左氏伝』に、そしてその奥にある『春秋』に有ったのか。杜預自身、『左氏伝』は「其文緩、其旨遠(その文は緩く、その旨は遠し)」と認めているではないか。