『立命館史学』34、2013、87-114頁。
後漢のそれを承けた魏晋時代(3-4世紀)の洛陽城については、内城(皇宮)は一つという一宮説と、南北二つあったという二宮説が対立しているわけだが、この論文の著者は様々な史料的根拠をもとに一宮説に傾いている。ただし二宮説の根拠となっている『三国志』裴松之注は否定しさることができないとして、断定はしていない。
興味があるのは、南北二つ皇宮があった場合、「複道」で繋がれていたというのがよく聞く説明なのだが、これはどういったものなのだろう。普通これは上下二階立ての通路あるいは道路を意味する。しかし『洛陽伽藍記』(5世紀成立)などでは、魏晋時代の洛陽の宮門および城中の大路は、すべて三車線だったといい、『太平御覧』巻195に引かれる同時代人陸機(261-303)の『洛陽記』ではその三道をさらに詳しく描写して、中央は天子および貴族高官専用の御道、両側を土牆で囲まれたその外側二線が臣下や一般庶民の使用する道となっていたとある。
陸機《洛陽記》曰:宮門及城中大道皆分作三,中央禦道,兩邊策土墻,高四尺餘,外分之。唯公卿尚書章服道從中道,凡人皆行左右,左入右出,夾道種榆槐樹。此三道四通五達也。 (維基文庫)
後漢のそれを承けた魏晋時代(3-4世紀)の洛陽城については、内城(皇宮)は一つという一宮説と、南北二つあったという二宮説が対立しているわけだが、この論文の著者は様々な史料的根拠をもとに一宮説に傾いている。ただし二宮説の根拠となっている『三国志』裴松之注は否定しさることができないとして、断定はしていない。
興味があるのは、南北二つ皇宮があった場合、「複道」で繋がれていたというのがよく聞く説明なのだが、これはどういったものなのだろう。普通これは上下二階立ての通路あるいは道路を意味する。しかし『洛陽伽藍記』(5世紀成立)などでは、魏晋時代の洛陽の宮門および城中の大路は、すべて三車線だったといい、『太平御覧』巻195に引かれる同時代人陸機(261-303)の『洛陽記』ではその三道をさらに詳しく描写して、中央は天子および貴族高官専用の御道、両側を土牆で囲まれたその外側二線が臣下や一般庶民の使用する道となっていたとある。
陸機《洛陽記》曰:宮門及城中大道皆分作三,中央禦道,兩邊策土墻,高四尺餘,外分之。唯公卿尚書章服道從中道,凡人皆行左右,左入右出,夾道種榆槐樹。此三道四通五達也。 (維基文庫)