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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

田中一輝 「魏晋洛陽城研究序説」

2013年12月17日 | 東洋史
 『立命館史学』34、2013、87-114頁。

  後漢のそれを承けた魏晋時代(3-4世紀)の洛陽城については、内城(皇宮)は一つという一宮説と、南北二つあったという二宮説が対立しているわけだが、この論文の著者は様々な史料的根拠をもとに一宮説に傾いている。ただし二宮説の根拠となっている『三国志』裴松之注は否定しさることができないとして、断定はしていない。
 興味があるのは、南北二つ皇宮があった場合、「複道」で繋がれていたというのがよく聞く説明なのだが、これはどういったものなのだろう。普通これは上下二階立ての通路あるいは道路を意味する。しかし『洛陽伽藍記』(5世紀成立)などでは、魏晋時代の洛陽の宮門および城中の大路は、すべて三車線だったといい、『太平御覧』巻195に引かれる同時代人陸機(261-303)の『洛陽記』ではその三道をさらに詳しく描写して、中央は天子および貴族高官専用の御道、両側を土牆で囲まれたその外側二線が臣下や一般庶民の使用する道となっていたとある。

  陸機《洛陽記》曰:宮門及城中大道皆分作三,中央禦道,兩邊策土墻,高四尺餘,外分之。唯公卿尚書章服道從中道,凡人皆行左右,左入右出,夾道種榆槐樹。此三道四通五達也。 (維基文庫

古賀勝次郎 「西洋の法と東洋の法 『法の支配』研究序説」(上)(中)

2013年12月17日 | 世界史
 『早稲田社会科学総合研究』6-1, 2005/7, pp. 1-19。
 『早稲田社会科学総合研究』6-2, 2005/12, pp. 21-37。
 
 西洋のそれに近いという意味で儒教の法思想は自然法的であり、同じ意味で法家のそれは実定法的だというのだが、「命令は命令である」「法律は法律である」という考え方からいえば、法家についてはそうだろうと思う。だが儒家はどうだろうか。孔子孟子時代ならまだしも、宋学以降はそう言い切ってよいのかどうか、いまの私にはまだ判断がつかない。
 儒家は、法と倫理が分化しない点でその法思想は自然法的であり(荀子でさえ)、法家は、それを峻別した(管子は未だし、商鞅・韓非子以後)という点において、実定法的である。ただし問題は儒家が法について殆ど語らなかったところにあると著者は言う。また強力な絶対神が存在し、その権威のもとで自然法と実定法(即法と道徳)が総合もしくは調和せしめられた西洋とはちがい、「天」はその権威において弱かったとも。