同号収録の武井協三「江戸薩摩藩邸における唐躍りの上演」、紙屋敦之「寛政八年琉球使節の江戸上りについて」、板谷徹「唐躍台本『琉球劇文和解』」で学ぶ。三氏への感謝の念をまず。以下はその内容の、私の興味と観点からする咀嚼である。
琉球の演劇には、日本の歌舞伎を手本に琉球で作られた琉球語で演じられる組踊(くみおどり)のほかに、中国の話劇がそのまま中国語(漢語)で演じられる唐躍(とうおどり)が存在した。「おどり」と名が付くがどちらも舞踏ではなく劇である。
前者は中国から歴代琉球王を冊封に訪れる冊封使の前で上演され、後者はもともと王府で王家たる尚氏の観覧に供されたものであるが、琉球王国の薩摩藩従属後、在国中または江戸参府中の藩主島津家一族の前で演じられるようになった。ただし薩摩・江戸のいずれの土地でも、演者は本来の伝承者である中国系琉球人の久米村(唐栄)住民ではなく、彼らから特訓を受けた首里の士族であった。薩摩本国あるいは江戸の藩邸で上演される唐躍の出演者は、唐栄の伝承者を師匠に、本番の一年前から稽古を積んだという。自身も中国語を解し、『南山俗語考』を編んだ島津重豪などは、とりわけ観賞に熱心だったとされる。
組踊が冊封使の前で上演される際には、漢語で筋書きを記したものが言葉を解さぬ観客に配布されたのと同様、唐躍の場合も、日本語での同様の解説が作られた。それを「戯文和解」という。現在、『琉球劇文和解』(おそらく18世紀末、寛政年間成立。作者は大槻玄沢?)と呼ばれる物が遺っている。
板谷徹「唐躍台本『琉球劇文和解』の成立と島津重豪」に、東大総合図書館蔵線装本『琉球劇文和解』の表紙および収録された演目の一つ「餞夫」の冒頭部分二頁(一頁は中国語原文、もう一頁はその和訳)の写真が収録されているが、前者を見ると、言語の各行の右側に片仮名で発音が書かれている(左側は同じく片仮名で逐語日本語訳)。それを見るとおもしろいのは、南方系の方言ではなく、北方語であり、j音がkである点を除けば、ほぼ現在の普通話の発音であることだ。つまりそこに書かれている原語もまたそうということである。
以下は私の感想。
ただし唐躍が最初からそうだったかどうかは分からない。1579(明万暦7)年には久米村で演じられていたことが謝傑『琉球録撮要補遺』という史料に見える(上記板谷論文。ちなみに謝傑は明の上述年尚永王冊封時の副使)。同記録において久米村人は「閩子弟」と表現されているが、これは久米村の中国系琉球人(所謂三十六姓)が、閩=福建から来琉した人々の子孫だったことによる。つまり彼らの母語は元来、福建系の南方方言(のち北京の国子監に留学して北京語も学ぶようになるが→参考)であり、いまの普通話(北京語)ではないからだ。
琉球の演劇には、日本の歌舞伎を手本に琉球で作られた琉球語で演じられる組踊(くみおどり)のほかに、中国の話劇がそのまま中国語(漢語)で演じられる唐躍(とうおどり)が存在した。「おどり」と名が付くがどちらも舞踏ではなく劇である。
前者は中国から歴代琉球王を冊封に訪れる冊封使の前で上演され、後者はもともと王府で王家たる尚氏の観覧に供されたものであるが、琉球王国の薩摩藩従属後、在国中または江戸参府中の藩主島津家一族の前で演じられるようになった。ただし薩摩・江戸のいずれの土地でも、演者は本来の伝承者である中国系琉球人の久米村(唐栄)住民ではなく、彼らから特訓を受けた首里の士族であった。薩摩本国あるいは江戸の藩邸で上演される唐躍の出演者は、唐栄の伝承者を師匠に、本番の一年前から稽古を積んだという。自身も中国語を解し、『南山俗語考』を編んだ島津重豪などは、とりわけ観賞に熱心だったとされる。
組踊が冊封使の前で上演される際には、漢語で筋書きを記したものが言葉を解さぬ観客に配布されたのと同様、唐躍の場合も、日本語での同様の解説が作られた。それを「戯文和解」という。現在、『琉球劇文和解』(おそらく18世紀末、寛政年間成立。作者は大槻玄沢?)と呼ばれる物が遺っている。
板谷徹「唐躍台本『琉球劇文和解』の成立と島津重豪」に、東大総合図書館蔵線装本『琉球劇文和解』の表紙および収録された演目の一つ「餞夫」の冒頭部分二頁(一頁は中国語原文、もう一頁はその和訳)の写真が収録されているが、前者を見ると、言語の各行の右側に片仮名で発音が書かれている(左側は同じく片仮名で逐語日本語訳)。それを見るとおもしろいのは、南方系の方言ではなく、北方語であり、j音がkである点を除けば、ほぼ現在の普通話の発音であることだ。つまりそこに書かれている原語もまたそうということである。
以下は私の感想。
ただし唐躍が最初からそうだったかどうかは分からない。1579(明万暦7)年には久米村で演じられていたことが謝傑『琉球録撮要補遺』という史料に見える(上記板谷論文。ちなみに謝傑は明の上述年尚永王冊封時の副使)。同記録において久米村人は「閩子弟」と表現されているが、これは久米村の中国系琉球人(所謂三十六姓)が、閩=福建から来琉した人々の子孫だったことによる。つまり彼らの母語は元来、福建系の南方方言(のち北京の国子監に留学して北京語も学ぶようになるが→参考)であり、いまの普通話(北京語)ではないからだ。