田中氏は、道家は人為法を否定する自然法思想に立ち、儒家は自然法に類似した法思想を持つとする。
そして表題ともなっている法家のそれであるが、法家は自然法を否定する法実証主義であると。
法の権威を五倫即ち自然法的原理に求めず、之れを主権者の意思に帰せしめるに於ては、法の内容の決定は一つに其の政治的意図の如何に依つて決定せられることになる。管子に於ては法治主義と並んで自然法主義が採用せられてゐる結果、君主の立法権の行使に関しては当然自然法よりする制約が存在するわけであるが、一般法家に於ては此の制約が存しない結果として、一方法治主義自体が徳治を含む人治即ち私意に反対してゐるものの、他方法治の内容自体の決定に関しては多分に主権者の私意に堕する危険が存在するのである。 (「八 立法の基準、変法論」本書65頁。原文旧漢字、以下同じ)
法家の法実証主義は一方に於て自然法を否定するに依つて実定法の自主性を確立すると共に、他方実定法の内容の決定即ち立法の標準に関しては客観的基準を欠如し、相対主義に陥つたのであつた。即ち其の法実証主義は法の形式的権威を極力維持し、此の意味に於て法的安定性の実現に貢献したのであるが、法の実質的権威に関しては必ずしも然るものとは云へなかつた。 (「七 法の権威の淵源」本書58頁)
「自然法則と倫理原則の融合調和」(129頁)しているのが「支那社会」(同頁)の自然法であるというのが著者の見解。
(福村書店 1947年10月)
そして表題ともなっている法家のそれであるが、法家は自然法を否定する法実証主義であると。
法の権威を五倫即ち自然法的原理に求めず、之れを主権者の意思に帰せしめるに於ては、法の内容の決定は一つに其の政治的意図の如何に依つて決定せられることになる。管子に於ては法治主義と並んで自然法主義が採用せられてゐる結果、君主の立法権の行使に関しては当然自然法よりする制約が存在するわけであるが、一般法家に於ては此の制約が存しない結果として、一方法治主義自体が徳治を含む人治即ち私意に反対してゐるものの、他方法治の内容自体の決定に関しては多分に主権者の私意に堕する危険が存在するのである。 (「八 立法の基準、変法論」本書65頁。原文旧漢字、以下同じ)
法家の法実証主義は一方に於て自然法を否定するに依つて実定法の自主性を確立すると共に、他方実定法の内容の決定即ち立法の標準に関しては客観的基準を欠如し、相対主義に陥つたのであつた。即ち其の法実証主義は法の形式的権威を極力維持し、此の意味に於て法的安定性の実現に貢献したのであるが、法の実質的権威に関しては必ずしも然るものとは云へなかつた。 (「七 法の権威の淵源」本書58頁)
「自然法則と倫理原則の融合調和」(129頁)しているのが「支那社会」(同頁)の自然法であるというのが著者の見解。
(福村書店 1947年10月)