宮崎市定氏は『論語の新研究』(岩波書店 1974年6月)で、「堯曰」篇の「敏則有効、公則説」を、伊藤仁斎と同じく、「公」は「恵」の誤りであるとして後者に置き換えて解釈している。その理由の説明が非常に興味深い。「公孫龍子の研究」とともに、氏のテキスト解釈(校勘含む)手法の根本原理に触れるものだと思っている。
荻生徂徠は、『論語徴』で伊藤仁斎説を批判して、『論語』に「公」の字が少ないからという理由で字を改めるのはおかしいとして、「公」の字のままで解釈している。さらに徂徠は、「公(おおやけ)」の語と概念は宋儒の「天理の公」だけでなく『書経』を初めとする経典にも見えるから公でおかしくないとして自らの立場を補強する。
しかし、仁斎が、ここは公ではおかしいと言ったのは、数だけではなく、その意味から判断してであった。「天理の公」はもちろん、ほかの経書に見られる「公平」の意味の「公」も『論語』には現れないというのがその理由である。
この点については、宮崎御大も指摘している。『論語』における「公」は、身分や位といった意味の「公」と、あとはそれから派生した「公(の)門」とか「公(の)室」といった具体的即物的な用法のそれしか見ることは出来ない。
ここで徂徠は、故意かどうかはわからないが徂論点をずらして批判している。
(ただ、私の見るところ、一例だけ、ここは宮崎氏と私と意見を異にするのだが、「おおやけ」もしくは「私事とは関わりない政府国家(公)の勤めの」というニュアンスで使われていると解釈できる用例がある。「雍也」篇、「有澹薹滅明者、行不由徑、非公事、未嘗至於偃之室也」の「公事」である。宮崎氏はこれを「公用」と訳しておられる。それにも関わらずどうしてそう取らないのかわからない。ちなみに吉川幸次郎先生は「公務」と訳しておられて、私と同じ見方をしているようである(朝日新聞社『論語』上)。)
では当の徂徠は『論語徴』でどう解しているか。
驚くべき事にこの条、同書ではやや無用な程に饒舌な徂徠にしては奇妙なのだが、一言も注釈をつけていない。何のための注釈書であろう。仁斎の解釈が間違っていると言うのであれば、「これが正解である」と自分の解釈を提出するのが学者として当然の責務であり作法ではないか。 徂徠という人、案外に文章が下手だ(議論が迂遠である)。世間言われるほどの学者ではなさそうなというのが正直な感想である。
付記。
ちなみにこれで、あまり脈絡は無いが思いだしたことがある。『尚書』「
洪範」篇に見える「無偏無党」という言葉は、通常は「私に偏することなくどちらにもどこにも傾かず」という意味に解されるらしい。なお殷の箕子が周の武王に与えたというこの篇の建前上の成り立ちからして、想定されている主語は、当然ながら「君主」である。
つまりいまの言葉で言えば「公平無私」ということか。ちなみに君主の「公」とは、自身の好悪に左右されること(これが私)ではなく、民のそれを自らのそれとすることだと、別の箇所に書いてある。
『論語』「
憲問」篇の「子曰、古之學者爲己、今之學者爲人」を、孔安国は「己の為にすとは履みて行うなり。人の為にすとは徒に能く言うのみ」と注している。http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ro12/ro12_00525/ro12_00525.pdf …テキストのみを看て、これをどうやったらそう解釈できるのか。与太もいい加減にしろと言いたい。
(平凡社 1994年3月)