2008年12月30日、松尾康典 『増補改訂版 現代ベトナム入門 ドイモイが国を変えた』から続く。
高麗(918年-1392年)は、建国の最初、天授という独自の年号を使用したが、ほどなく中国後唐王朝(923年-936年)の年号に替えた。途中でふたたび(950年)、光徳という独自の年号を建てるが翌年には後漢(946年 - 950年)の正朔を奉じている。960年に北宋が成立した際にはその建隆という年号の二字がいずれも自国の太祖とその父の諱に触れるため、その両方を同様の意味を持つ漢字で言い換えた、峻豊という年号を用いたほかは、以後、一貫して中国の元号をそのまま使用した(本書22-23頁)。
この時代(10世紀)の中国は、907年の唐滅亡のあと、960年の北宋による中国統一まで、「五代十国」と呼ばれる大分裂期だった。高麗が独自の年号を建て、さらには中国に対してはその冊封を受けて王を称しながら、その一方、国内においては「皇帝」「天子」を称し、「朕」の一人称を使い、命令を「制」「詔」(みことのり)と呼び、首都を「皇都」と呼ばせていたのは、中国国内の混乱による圧力の低下に起因する(本書23頁)。
おもえばベトナムが北属期を脱するのも同じ10世紀(938年)の中国五代十国時代であり、自国の君主を「南帝」と呼んで北帝=中国皇帝に対置した李常傑(リ・トゥン・キェット)の詩が書かれるのは翌11世紀である。スタート地点はほぼ同じということか。
(山川出版社 2003年8月1版1刷 2008年4月1版2刷)
高麗(918年-1392年)は、建国の最初、天授という独自の年号を使用したが、ほどなく中国後唐王朝(923年-936年)の年号に替えた。途中でふたたび(950年)、光徳という独自の年号を建てるが翌年には後漢(946年 - 950年)の正朔を奉じている。960年に北宋が成立した際にはその建隆という年号の二字がいずれも自国の太祖とその父の諱に触れるため、その両方を同様の意味を持つ漢字で言い換えた、峻豊という年号を用いたほかは、以後、一貫して中国の元号をそのまま使用した(本書22-23頁)。
この時代(10世紀)の中国は、907年の唐滅亡のあと、960年の北宋による中国統一まで、「五代十国」と呼ばれる大分裂期だった。高麗が独自の年号を建て、さらには中国に対してはその冊封を受けて王を称しながら、その一方、国内においては「皇帝」「天子」を称し、「朕」の一人称を使い、命令を「制」「詔」(みことのり)と呼び、首都を「皇都」と呼ばせていたのは、中国国内の混乱による圧力の低下に起因する(本書23頁)。
おもえばベトナムが北属期を脱するのも同じ10世紀(938年)の中国五代十国時代であり、自国の君主を「南帝」と呼んで北帝=中国皇帝に対置した李常傑(リ・トゥン・キェット)の詩が書かれるのは翌11世紀である。スタート地点はほぼ同じということか。
(山川出版社 2003年8月1版1刷 2008年4月1版2刷)