しかし、ブラックプールから家に戻る汽車の中でこの問題について思いをめぐらした最初の晩も、後になって圧倒的な破壊の状況の説明を読み、写真を見たときも、原爆投下の決定の正しさについては、何の疑問ももたなかった。私は、連合軍が日本本土に上陸して猛攻撃をかけたとしたら不可避だった人命の損失を回避したという大きな理由で、それは正当化されると考えた。日本はまだ、二百五十万人の武装人員を保有していた。私たちはすで、沖縄決戦で日本人が見せた猛烈な抵抗を知っていた。まず広島で、次いで長崎で示された連合国の軍事技術上の優位性の大きさだけが、日本の指導者に、抵抗しても望みがないことをわからせることができたのだ。こうして日本は、広島から一週間後、二発めの原爆が長崎に落とされてから降伏した。 (「第1部 第2章 大学時代」 本書84-85頁)
ソ連の参戦という歴史事実とその事実が日本の軍部や指導者たちに与えた衝撃は無視。反共・反ソの思想上、認められないのだろうか。
→http://blog.goo.ne.jp/joseph_blog/s/%B8%B6%C7%FA
下巻も読んだ。この人は頑固で依怙地である。人の意見を聴かない。自分の意見とやりかたを押し通す。しかし頭も良かったから、進む方向をおおむね間違わず、いい結果がだせた。北宋の王安石と同じタイプである。
(日本経済新聞社 1996年8月)
ソ連の参戦という歴史事実とその事実が日本の軍部や指導者たちに与えた衝撃は無視。反共・反ソの思想上、認められないのだろうか。
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下巻も読んだ。この人は頑固で依怙地である。人の意見を聴かない。自分の意見とやりかたを押し通す。しかし頭も良かったから、進む方向をおおむね間違わず、いい結果がだせた。北宋の王安石と同じタイプである。
(日本経済新聞社 1996年8月)