「トキワ荘最後の住人の記録 若きマンガ家たちの青春物語」(東京書籍)を読みました。
わたしはトキワ荘ものにそれほど関心があるわけではないんですが、石森章太郎ふるさと記念館で部屋の様子を再現した展示を見たことがあります。ハヤカワポケットミステリが本棚にぎっちり入っていた。この本にもそれを思い出させる描写があって、おもしろく読みました。
筆者は山内ジョージさん。なんの気なしにぺらぺらめくってみたのですが、口絵の住所(「墨汁一滴」を回覧した人たちのリスト)を見たら、「中田町宝江黒沼専福寺」とあって。
「専福寺」は記憶にないんですが、この住所、わたしの初任校にごく近い。どうも出身高の大先輩のようです。
「伯母が、知り合いの息子さんに漫画の上手な高校生がいるといって紹介してくれたのだ。隣り町に住む小野寺章太郎さんだった」隣り町というのは、当時まだ合併前だったからでしょう。直線距離で五キロないくらいじゃないかな。
読んでいるうちに、山内さんの作品展を記念館でしたことがあることが分かり、ポスターも収録されていました。わかる! これ、見たことがあります。
そんな親近感もあり、様々なまんが家さんが次々顔を出しで、楽しく読めました。
ちょうど石森章太郎「レオナルド・ダ・ビンチになりたかった」(ポプラ社)を読みかけていたこともあって、関連づけて読んでいたのですが、山内さんはこの後アシスタントとしてもかなり親しく付き合いが続いたようです。
佐沼高校時代からトキワ荘に出入りしており、長期の休みには必ず原稿を手伝いに行っていた。休みがあけてもまだ帰らずにいたら、修学旅行でやってきた先生が石森さんを生徒と会わせたいと連絡してきた。一緒に上野まで出かけたら、サボっていたことがばれてしまい、怒られたとか。
ペンネームについて、「当時活躍していた小野寺秋風の絵柄が、どうも好きになれない。それで同じ名前は嫌だというんで、郷里の町の名前の石森にしたそうです」とも語っています。
石森さんが結婚してトキワ荘を出て行ってからは、赤塚不二夫さんの話題が多くなります。赤塚さんは面倒見がよくこまやかなタイプ。石森さんの面倒もよく見ていたそうです。後年、テレビには大胆な人柄で登場していましたが、これは演技だったのではないかとも。
同居していたお母さんにもお世話になり、料理の「さしすせそ」を教えてもらったとか。
山内さんと仲のよいまんが家といえば、一時は合作をしていた高井研一郎さんでしょう。「山口六平太」を書かれている方ですね。実は「イヤミ」のキャラクターデザインも高井氏だそうです。「ショエー」というせりふを作ったはずが、編集さんの手違いで「シェー」になり、あのポーズをどう思うかリサーチするために出かけていったりとエピソードにも事欠きません。
みなさん非常に仲がよく、誰かの原稿が滞ると手伝いにきてくれる。赤塚さんにサインをもらいたいとやってきた少年たちに、「赤塚さん、スタッフの面々、それに私も加わり、手分けしてイヤミのシェーを描いてあげた。(略)子どもたちは何人もが同じようにイヤミを描いたのを不思議に思わなかったかどうか」と心配までしていますよ。自分の絵は偽物だと思われていないかというのがおかしい。
当時のまんが家のみなさんの交遊ぶり、生き生きと紹介されています。
わたしはトキワ荘ものにそれほど関心があるわけではないんですが、石森章太郎ふるさと記念館で部屋の様子を再現した展示を見たことがあります。ハヤカワポケットミステリが本棚にぎっちり入っていた。この本にもそれを思い出させる描写があって、おもしろく読みました。
筆者は山内ジョージさん。なんの気なしにぺらぺらめくってみたのですが、口絵の住所(「墨汁一滴」を回覧した人たちのリスト)を見たら、「中田町宝江黒沼専福寺」とあって。
「専福寺」は記憶にないんですが、この住所、わたしの初任校にごく近い。どうも出身高の大先輩のようです。
「伯母が、知り合いの息子さんに漫画の上手な高校生がいるといって紹介してくれたのだ。隣り町に住む小野寺章太郎さんだった」隣り町というのは、当時まだ合併前だったからでしょう。直線距離で五キロないくらいじゃないかな。
読んでいるうちに、山内さんの作品展を記念館でしたことがあることが分かり、ポスターも収録されていました。わかる! これ、見たことがあります。
そんな親近感もあり、様々なまんが家さんが次々顔を出しで、楽しく読めました。
ちょうど石森章太郎「レオナルド・ダ・ビンチになりたかった」(ポプラ社)を読みかけていたこともあって、関連づけて読んでいたのですが、山内さんはこの後アシスタントとしてもかなり親しく付き合いが続いたようです。
佐沼高校時代からトキワ荘に出入りしており、長期の休みには必ず原稿を手伝いに行っていた。休みがあけてもまだ帰らずにいたら、修学旅行でやってきた先生が石森さんを生徒と会わせたいと連絡してきた。一緒に上野まで出かけたら、サボっていたことがばれてしまい、怒られたとか。
ペンネームについて、「当時活躍していた小野寺秋風の絵柄が、どうも好きになれない。それで同じ名前は嫌だというんで、郷里の町の名前の石森にしたそうです」とも語っています。
石森さんが結婚してトキワ荘を出て行ってからは、赤塚不二夫さんの話題が多くなります。赤塚さんは面倒見がよくこまやかなタイプ。石森さんの面倒もよく見ていたそうです。後年、テレビには大胆な人柄で登場していましたが、これは演技だったのではないかとも。
同居していたお母さんにもお世話になり、料理の「さしすせそ」を教えてもらったとか。
山内さんと仲のよいまんが家といえば、一時は合作をしていた高井研一郎さんでしょう。「山口六平太」を書かれている方ですね。実は「イヤミ」のキャラクターデザインも高井氏だそうです。「ショエー」というせりふを作ったはずが、編集さんの手違いで「シェー」になり、あのポーズをどう思うかリサーチするために出かけていったりとエピソードにも事欠きません。
みなさん非常に仲がよく、誰かの原稿が滞ると手伝いにきてくれる。赤塚さんにサインをもらいたいとやってきた少年たちに、「赤塚さん、スタッフの面々、それに私も加わり、手分けしてイヤミのシェーを描いてあげた。(略)子どもたちは何人もが同じようにイヤミを描いたのを不思議に思わなかったかどうか」と心配までしていますよ。自分の絵は偽物だと思われていないかというのがおかしい。
当時のまんが家のみなさんの交遊ぶり、生き生きと紹介されています。
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