草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

日本の領土を死守せんとする石原慎太郎を断固支持する!

2012年04月17日 | 祖国日本を救う運動

 石原慎太郎が生涯最後の勝負に出た。三島由紀夫が昭和45年に市ヶ谷に決起したのと、重大さでは大差はない。東京都が尖閣諸島を購入するというのは、大英断も大英断である。日本が国家として身構えないから、中共がいい気になっているのだ。三島は自衛隊に栄誉の大権を与えるために、命を賭けた。石原が言いたいのは、「領土を死守せずして、何が国家か」という正論である。今日のフジテレビの「とくダネ!」で、そうした石原の発言にケチをつけていたが、買取金額を云々するのであれば、中共に対して日本国が行っている援助の額と比べてみればいいのだ。それもせずに、大橋巨泉の弟子だかどうか知らないが、キャスターの小倉智昭あたりがとやかくコメントするのは論外だ。それではまるで、中共の手先と同じで、工作員レベルではなかろうか。尖閣諸島をめぐっては、どちらが実効支配をするかにかかっている。このままでは、中共の領土になるのは間違いない。サヨクが牛耳っている民主党政権の間に、色々と手を打ってくるはずだ。弱腰なのを相手は見抜いているからだ。それに対抗すべく、石原が立ちあがったことは、日本中の保守民族派を奮い立たせた。軍事独裁国家の中共は、沖縄までも自分の領土にしたがっている。おとなしくしていれば、付け上がるだけだ。まずは先制攻撃あるのみで、一刻の猶予もないのある。

 
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鬼怒川温泉で「年々歳々花相似たり」の漢詩を口ずさむ

2012年04月17日 | エッセイ

 喜多方市から東武鉄道の鬼怒川温泉駅まで、東京からの友人を迎えに行ってきた。会津はようやく春めいてきたばかりなのに、南会津町から栃木県日光市を結ぶ山王トンネルを過ぎると、そこはまさしく春真っ盛りであった。川治温泉あたりからは、レンギョウの黄色に圧倒された。そして、白いコブシの花に気高さを感じた。鬼怒川温泉では、赤い梅はほぼ満開。雪国会津のように、梅と桜とがあでやかさを競うということはなく、薄ピンク色の桜はようやく開花した感じで、陽あたりの良い場所では咲き始めているが、山間部では蕾がふくらみかけた所もあった。上京するおりには、決まって東武鉄道を利用する私にとっては、それらはいつもの見慣れた光景である。後2週間も経てば、周囲の山肌に淡紅色の山桜が点綴し、その美しさはまた格別である。それだけに、この季節になると私は「年々歳々花相似たり/歳々年々人同じからず」という漢詩を口ずさんでしまう。初唐の劉廷芝の作といわれるが、毎年同じように花は咲くのに、それを愛でる人たちの顔ぶれは同じではない。そうした歳月の経過を思い知らされれば、どんな人間であろうと、感傷的な気分にさいなまれるのである。すでに私も還暦を迎えており、これからの道のりは限られている。気ぜわしく走り抜けた若い頃と違って、じっくりと自然の美を堪能しても、とやかく言われる年齢ではない。残された1日1日を大事にしたいものだ。「洛陽の女児顔色を惜しむ/ゆくゆく落花に逢うて長く嘆息す」というように、時間は止めようがないのだから。

 
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御先真っ暗な今の世に光明をもたらす唯識の思想とは?

2012年04月17日 | 思想家

 御先真っ暗のような今の時代にあって、心の安らぎを得るにはどうしたらよいか。私の場合は、最澄や空海に論争を挑んだ法相宗の僧徳一が会津にいたこともあり、唯識に関する本はできるだけ目を通すようにしているが、あまりにも難解で途方にくれていた。それだけに、この間上京したおりに、紀伊国屋新宿南店で購入した横山紘一の『唯識入門講座』は大いに参考になった。人生に対する三大問いかけである「なに」「なぜ」「いかに」を問題にし、唯識の思想による解決策を示してくれているからだ。横山は「なに」には無我、「なぜ」には縁起、「いかに」には菩薩行という語で答える。人間が迷い、苦しみ、罪を犯してしまうのは思い込みのせいであり、無我になれば気が楽になる。縁起とは「自分以外の無量無数の縁によって生きている、否、生かされてあること」だという。仏教では「縁起の故に無我である」との結論に達するのだ。そして、無我と縁起を悟れば、菩薩行として「自分を勘定に入れずに生きる人」になろうとする信仰心が湧いてくるのである。唯識ではよく「一人宇宙」という言葉が用いられる。私たち一人ひとりにそれぞれの宇宙があるというのだ。しかし、それでは他人と理解し合うこともできない。一人宇宙である現象世界の事に対して、現象世界を貫いている理を学ぶことで、全ての「一人宇宙」が包含されるのである。菩薩行を実践するのは、口で言うほど生易しくはないが、その途上にある者として努力することだけは、私でも可能ではないだろうか。

 
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