ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

中島飛行機と学徒動員

2011年10月30日 | 研究・書籍

空襲による死者(昭和20年 1945年)

太田町(現太田市)2/10(152人)2/16(42人)4/4(18人)8/14(6人)
小泉町大川村(現大泉町)2/25(6人)4/4(99人)
休泊村(現太田市)2/10(10人)4/4(18人)
毛里田村(現太田市)8/14(1人)
宝泉村(現太田市)8/14(1人)
矢場川村(現太田市)2/10(1人)4/4(23人?)

今年夏発行の『中島飛行機と学徒動員』著者は元太田高校校長、正田喜久さん。教育者らしく、学徒動員当時の生徒たちの立場に気持ちを置き長時間重労働と食糧難の過酷な学徒動員の実態を検証している。とても力作です。豊富なデータを基に編集されていて具体的な数値を眺めているだけでも「学徒動員」の時代にタイムスリップしてしまった。

お坊さんで教育者、無着成恭(むちゃくせいきょう)は山形中学(現山形東高校)生として中島飛行機小泉製作所(現在地:三洋電機東京製作所)で働いている。パイプの切断作業を一緒にしていた親元離れ台湾から来ていた小学5~6年生くらいの少年工たちと17歳の自分を比較して「俺はだめだ」と動員日記に書いている。

三島由紀夫も小泉製作所の事務部門に動員されていた。後に武闘派に転じた三島由紀夫からは想像できないが、兵役検査第二乙種で虚弱だった東京帝大生当時の三島は「この大工場は資金の回収を考えない神秘的な生産費の上にうちたてられ、巨大な虚無に捧げられていた・・『死』にささげらているのであった・・」と小説『仮面の告白』のなかで「N飛行機工場」として触れている。国策産業と言う意味では今日の原子力発電所にも当てはまるような表現だ。

大戦末期、物資の欠乏で学校工場が一時立ち行かなくなった時、憂国の心情を深めた生徒たち(太田高等女学校4年有志)が勤労継続を願って各自の指を切り血書にして校長に提出した。血書による事件は富岡中学生、太田中学生のものもあったという。

昭和19年7月、太田製作所の大講堂で学徒たちを前に士気高揚の激励会があった。中島飛行機の会社幹部が訓辞で「敵は物量にたよってわが本土に迫らんとしている。今にして驕敵(きょうてき=おごる敵)を撃たなければ皇国は永久に彼らの奴隷たる境地に甘んじなければならないのである」。檄を飛ばした幹部は、大げさに言い放った言葉かもしれないし敗戦後の日本を想定などしてはいなかったと思うのだが。

しかし戦後66年、「永久に・・奴隷たる境地に甘んじなければならない・・」には、昨今の沖縄基地問題、TPP論争を前にしても妙に先見の言葉だったように感じ入ってならない。本書の本筋ではないところで反応し一時中断、考え込んでしまった・・。 

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