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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■ヤコブの殉教 / 板倉邦雄

2019年10月08日 | Weblog
2019/9/3放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は「ヤコブの殉教」という題でお話ししましょう。殉教とは自分の信じる信念や宗教のために身命を捨てることです。今日はエルサレム教会の指導者、イエス様の愛した弟子の一人ヤコブの殉教のお話です。使徒の働き12章に入ります。

 さて、エルサレム教会を襲った飢饉の次に待っていたのは何と自分たちの尊敬する指導者ヤコブ先生の殉教でした。紀元44年頃、ユダヤ地方を治めていた王様はヘロデ・アグリッパ1世で、ヘロデ大王の孫でした。ヘロデ王はエルサレム教会に対する圧迫の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを捕え、牢に入れた後、殺害してしまいました。その事はユダヤ人たちに歓迎されたのです。ヘロデ家はローマ皇帝によってユダヤ地方の統治を任されていました。ですからもしユダヤ地方をうまく治めないと、無能力者としてその地位を追われる可能性もあったのです。ですからヘロデ王はいつも自分の身の安全を考えていました。

 そこでヘロデ王はヤコブの殺害がユダヤ人の気にいったのを見たので、次にエルサレム教会の最高指導者であったペテロを捕えて牢に入れてしまいました。それは時あたかも過越しの祭が行われ、エルサレムには巡礼者でごった返していました。ヘロデ王の思惑は過越しの祭りの後でペテロを民衆の前に引きずりだし、ヤコブと同様に殺害するつもりだったのです。そうすればヘロデ王の人気は更に高まるでしょう。しかも祭りの最高潮の七日めに処刑すれば最も効果があると計算していたのです。

 さて一方、エルサレム教会ではペテロ先生のために熱心な祈りが捧げられました。ではヤコブがヘロデ王に捕らえられ処刑された時、教会の人々は熱心に祈らなかったのでしょうか? いいえ、教会はペテロ先生の時と同じように熱心な祈りをヤコブ先生のために捧げたことでしょう。しかし同じように熱く祈りながら、ヤコブは殉教し、ペテロは助かるのです。この分かれ目は何でしょうか。私には分りませんが、神様の深い隠れたご計画の中にあるのは確かです。

  (PBA制作「世の光」2019.9.3放送でのお話より )

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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■神への賛美と力 / 岩井基雄

2019年10月07日 | Weblog
2019/9/2放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 第一月曜日の今日は、詩篇108篇の前半から、「神への賛美と力」と題して、神様の恵みに生かされる人生に心をとめてみましょう。さっそくお読みします。

 「 神よ 私の心は揺るぎません。 私は歌い ほめ歌います。
          私の心の底も。
   琴よ 竪琴よ 目を覚ませ。
          私は暁を呼び覚まそう。
  【主】よ 私は諸国の民の間で あなたに感謝し
          もろもろの国民の間で あなたをほめ歌います。
   あなたの恵みは大きく 天の上に及び
          あなたのまことは雲にまで及ぶからです。
  神よ あなたが天で
          あなたの栄光が全地であがめられますように。 

                旧約聖書 詩篇108篇1節から5節

 この詩篇108篇には「ダビデの賛歌」という表題があり、詩篇57篇の7節から11節のダビデの神への賛美が繰り返されています。ダビデの時代からくだってバビロン捕囚が終わった後、大きな痛みを通った後の回復と感謝をダビデの賛美をなぞるようにして感謝と賛美を神に捧げているのです。

 このように過去の恵みと感謝をことあるごとに思い起こすことはとても重要です。人生の嵐や試練の中でこそ、過去に受けた神の恵みや愛は私たちに慰めと力を与えるからです。試練を通る中にあっても私の心は揺れない、と、この作者は歌います。そして、暁が私を呼び覚ますのではなく私が暁を呼び覚まそう、と続けます。苦難の暗闇の中にあっても、琴や竪琴を力強く奏でながら神様へと心を向ける作者の意思と賛美への強い決意が窺えますね。私たちは様々な苦難や試練の中で気落ちし、こんな事を許す神は信頼できない、だから神は居ない、と判断しがちですよね。しかしこの詩篇の作者は、苦難の中でこそ神への信頼を篤くし、賛美をささげ、揺るがない心で神様に感謝をささげ、神を誉め歌うのです。それは彼が、神の恵みは大きく天の上に及び、神のまことは雲にまで及ぶ、と知っているからです。あなたの人生にどのような苦難があろうとも、聖書が語る神様の恵みとまことを思い起こし、まず神様への賛美と感謝をささげませんか? 賛美はあなたの心に力を与え、あなたを内側から造り変えるのです。
 
(PBA制作「世の光」 2019.9.2放送でのお話より )
 
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■ダビデの弱さと失敗 / 羽鳥頼和

2019年10月05日 | Weblog
2019/8/31放送

 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
 聖書は人間の本当の姿を語っています。それが主人公であったとしても、弱さがあり、失敗があり、悩み苦しむ姿をそのまま語ります。どんなに信仰深い人も苦難や問題の中で失敗をし、罪を犯してしまうことがあるのです。今日は旧約聖書サムエル記第二19章から、イスラエルの王ダビデの弱さについてお話しします。

 ダビデの息子アブサロムの謀反がダビデの部下たちによって鎮圧されました。そしてアブサロムは殺されてしまいました。謀反を鎮圧した部下たちはダビデの所に戻ってきます。しかしそれは喜びの凱旋とはなりませんでした。なぜならダビデは王として部下たちの労をねぎらい感謝するどころか、彼らを出迎えることさえしなかったのです。ダビデは王としてするべきことをせず、ただただ息子の死を父親として嘆き悲しんでいたのです。謀反によって国は分裂してしまっていました。しかしダビデは王としてイスラエルをしっかりと治めることをしなかったのです。そのためダビデの部下はダビデに苦言を呈して説得をしました。それでダビデはやっと王として立ち上がりました。そして国の混乱を静めようとします。しかしダビデが行なったことは、部下たちの反発を受けたり、偽証した者を裁かなかったり、と決して良いものではありませんでした。

 ダビデは完璧な王ではありませんでした。正しい判断をすることができず、正義を行うことができないときがあったのです。その時ダビデは神にどのように祈ったのでしょう。

 悔い改めの詩篇と呼ばれる詩篇51篇はこのように神に祈っています。
 「私はあなたの目に 悪であることを行いました。 ・・・ 私の罪を除いてください。 そうすれば私はきよくなります。 ・・・ 神よ 私にきよい心を造り 揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください。

 人の弱さは罪を生み出すことがあります。しかしそんなとき、神に救いを求めましょう。神はどんな罪も取り除き、きよい心を与えてくださるお方です。

 明日は日曜日です。お近くのキリスト教会にいらしてください。
 
 (PBA制作「世の光」 2019.8.31放送でのお話より )
 
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■枯れたいちじく / 関根弘興

2019年10月04日 | Weblog
2019/8/30放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 イエス様の最後の一週間はどんな一週間だったのでしょう。イエス様はエルサレムに入られ、まず神殿に行かれました。しかしその神殿の姿はまるで強盗の巣のようになっていたというのです。イエス様は神殿で商売をしていた商売人や両替人を追い出してしまわれました。その翌日、滞在先のベタニヤという村からエルサレムに再び行かれる途中、驚くことが起こりました。イエス様が葉ばかりで実のないイチジクの木に向かって、「お前の実はもういつまでもならないように!」と言われると、その木がたちまち枯れてしまったというのです。

 この枯れてしまったイチジクの木の出来事にはどういう意味があるんでしょう。実は聖書の中には象徴的な行為をすることによって何らかの大切な真理を伝えるという、そういうことが出てくるんですねえ。聖書の中ではイスラエルの民を象徴する植物としてブドウとイチジクがよく用いられています。ですから、実が無い葉ばかりのイチジクは当時の信仰の中心であるエルサレムと神殿の姿を示しているんです。イエス様は、どんなに立派な建物があっても形だけの礼拝の姿は結局いつかは枯れてしまう、ということをここで示された訳ですね。そして実際にエルサレムも神殿も紀元70年にローマ軍によって滅ぼされてしまいました。そのようなことも含めて、イチジクの木を枯らすことによってイエス様はエルサレムの姿を預言的に示された訳です。

 しかしイエス様は、新しい礼拝の時が来るということを私たちに教えてくださっています。イエス様は、「目に見える神殿は破壊されてしまうけども、わたしは三日で新しい神殿を建てる」と言われたんですねえ。

 どういう意味でしょう。それはイエス様は十字架で死なれ、三日目に復活なさる、ということなんです。そして信じる一人ひとりといつまでも共にいてくださるという約束がそこにあるんですねえ。ですからこのイエス様を信じ生きる一人ひとりが、実は今、神の神殿とされていると聖書は教えているんです。なぜなら、神殿は神の住まう所ですよねえ。今、私たちはいつでもどこでも誰とでも、ともに神様を感謝し、賛美をささげ、祈ることのできる恵みの中に生かされているんです。そして一人ひとりが大切な神様の神殿とされているのですから、お互いを大切にしながら、自らを大切にしながら、歩んでいきたいですね。

     (PBA制作「世の光」2019.8.30放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■十戒 -自由への励まし-120  欲しがってはならない / 大嶋重徳

2019年10月03日 | Weblog
2019/8/29放送

世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。
 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。
 十戒をはじめとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく、自由へと導くためのことばなのです。
 第10戒は「 欲しがってはならない。」(出エジプト記20章17節、申命記5章21節 新改訳2017)です。これは「むさぼってはならない。」(口語訳聖書)とも訳されます。

 ある人は言いました。「私たちは『盗んではならない。殺してはならない。姦淫してはならない。』と読んだとしても自分はそのようなことを犯してはいない正しい存在だ、と考えるだけかもしれない。しかし、『むさぼってはならない。』という命令に出会うとき、自らの中にあるすべてのものがあらわにされ、自分の薄汚れた姿が自覚される。」と語ります。

 第10戒は私たちのよごれを映し出す鏡であり、内側にあるよごれに気がつかせてくれるものです。しかし同時に、なぜ欲しがることがいけないのか、という違和感もあるかと思います。第10戒は他の戒めとは違い、欲しがるだけではまだ具体的に誰にも迷惑を懸けていないからです。一方で、欲しがることは人間の経済運動の活力の一つでもあります。

 かつて「買い物が世界を救う」というクレジットカード会社のキャッチコピーがありました。あなたが何か買い物することで経済効果が生まれ、他の誰かが助かり生かされ助け合う社会が形成される、と謳います。私たちの消費意欲が掻き立てられることは良いことだと言うのも事実でしょう。そして私たちの目の前には次ぎから次へと新商品が現われてきます。そしてそれを手にしたら、どれだけ私たちの生活が便利になるのか、快適になるのか、というメッセージを聞くと、本当にそうなんだろうなあ、といつも強い説得力をもって伝わってきます。

 しかし問題は、それらの多くのものが自分に本当に必要なものなのか、という事を考える前に、手に入れる方法について提案をして来ることです。そして残念ながら、それらの殆どのものは手にした瞬間に古びたものへと変わっていってしまいます。そして私たちはいつも何かを求め、何かを欲し、何かを得なければ私の人生は不幸になるのではないか、という怯えを持っているのだと思います。

 10戒「欲しがってはならない」は、そんな私たちの現状に、あなたは本当に何を欲しいのですか?と問いかけてきます。

 ラジオをお聴きの皆さん、あなたの人生で本当に欲しいものがあなたの手に入っているでしょうか。あなたの本当に必要なものを知っておられる神に、その事をお聞きしてみていただきたいと思います。

    ( PBA制作「世の光」2019.8.29放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■民の幸福を求める / 福井 誠

2019年10月02日 | Weblog
2019/9/4放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。

 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがありますね。今日も聖書を開いてまいりましょう。エステル記10章3節から「民の幸福を求める」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「実に、ユダヤ人モルデカイはクセルクセス王の次の位にあって、ユダヤ人にとっては大いなる者であり、多くの同胞たちに敬愛された。彼は自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語る者であった。

 今日はエステル記の最終章ですね。わずか3節。それはエステルの時代に起こったユダヤ人大虐殺の結末を描いています。ユダヤ人を憎み、ユダヤ人絶滅の法令を発布し実行するようにし向けたハマンは自ら滅び、ユダヤ人は自分たちを迫害する者たちを打ち倒す逆転の勝利をつかんでいくのです。図らずもこの困難の中でユダヤ人を牽引したモルデカイは、ペルシャの王クセルクセスの次の位に抜擢されていきます。

 しかしながら当時一体誰がこのような結末をはじめから予測し得たことでしょうか。誰も彼もが神の救いを求めつつも、巨大な国家権力の前に、自分たちも終わりだと考えたのではないでしょうか。

 エステル記の現代版であるアウシュヴィッツの惨事を逃れたコーリー・テン・ブームという人は、私たちが知っている神に知らない未来を託することを怖れてはならない、と語ったと言います。私たちに最善を為してくださる良き神に期待し続けることはとても大切なことです。神は闇から光へ、死からいのちへと導かれるお方だからです。

 しかしながら更に大切なのは、ただ神の憐れみによって九死に一生を得るだけではなく、神に与えられたいのちを生かすことでしょう。モルデカイは自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ることを使命としました。私たちにいのちが与えられているのは、我欲に満ちた自分自身のためにそれらを費やすためではありません。他者の幸福を求め、平和を語りもたらすためです。私たちのいのちも力も、そして能力も財力も、すべては他者の幸福と平和のために与えてくださっているもので、正しく用いていきたいものですね。

 では良き一週を祈ります。
 
 (PBA制作「世の光」2019.9.4放送でのお話より )

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■しかし、モルデカイは / 福井 誠

2019年10月02日 | Weblog
2019/8/28放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。

 継続は力なり。聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われていくものがあるものですね。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はエステル記3章2節から、「しかし、モルデカイは」と題してメッセージをお伝えいたします。

 「それで、王の門のところにいる王の家来たちはみな、ハマンに対して膝をかがめてひれ伏した。王が彼についてこのように命じたからである。しかし、モルデカイは膝もかがめず、ひれ伏そうともしなかった。

 エステル記に書かれた出来事は、エズラ記やネヘミヤ記と時代が重なっていることにまず注意しておきたいものですね。それはちょうどバビロンに捕虜となって連れて行かれた人々が帰ってきた時代で、ゼルバベルの第一次帰還とエズラの第二次帰還の間に起こった出来事です。つまり、エルサレムにユダヤ人が帰還し、神殿を再建し終わった頃、ペルシャのスサの都ではユダヤ人に対するただならぬ事態が生じていたのですね。

 王の側近であるハマンという人物が、自分に敬意を払わないモルデカイという人物を不愉快に思い、彼の民族であるユダヤ人もろともに皆殺しにしようと企んだのです。ハマンは個人的な恨みを国家的な企てにし、ユダヤ人を根絶やしにしようとする実に恐ろしい人でしたね。

 さて、その結果いかに。明日の聖書通読の楽しみにしたいところですが、今日の箇所で心に留めたいのは、なぜモルデカイがハマンという人物に敬意を払おうとしなかったか、ですね。1節に、ハマンは戦略家であり、お金に物を言わせて物事を進める人であった、と言います。モルデカイは正直率直な人間で、たとえどんなに権威を振りかざそうともそのような人間には媚を売らかった、という訳です。

 世の中にはそのような人々に出会うことが多々あるものですね。そのたびに私たちは長いものには巻かれるしかないのかなと思うこともあるでしょう。「しかし、モルデカイは」と書く著者の目的は、モルデカイの勇気よりも、正しいことをなさる神を覚えて信頼するモルデカイを描くことです。神は盲目ではありません。神に信頼して、堂々とした人生を歩ませていただきたいものですね。

 では良き一週を祈ります。
 
 (PBA制作「世の光」2019.8.28放送でのお話より )

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■力に応じて / 板倉邦雄

2019年10月01日 | Weblog
2019/8/27放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 今日は力に応じた援助についてお話しします。新しく生まれたばかりのシリアのアンテオケ教会---アンテオキア教会---がユダヤ地方に大飢饉が起こった時、救援の物資やお金をユダヤの諸教会に送り届けたことです。使徒の働きの11章の続きです。

 さて預言者と呼ばれた人たちがアンテオケ教会へやってきました。その中の一人が立って、世界中に大地震が起こるだろう、と聖霊によって預言したのです。そしてその預言通り、ローマの皇帝クラウディウス帝の時に大飢饉が起こりました。クラウディウス帝は紀元41年から54年まで皇帝でした。この世界的大飢饉のため、ユダヤの諸教会、特にエルサレム教会は食べ物をはじめ生活物資やお金に困り果ててしまいました。もちろんシリアのアンテオケ教会も大飢饉の中に置かれていました。しかしアンテオケ教会の人々は自らの困窮にもめげず、エルサレム教会のために、それぞれの力に応じてユダヤに住んでいる信徒たちに援助を送ることを決めたのです。そしてその救助物資や金銭をバルナバとサウロの手に託して送り届けました。

 さて、ここから二つのことが導き出されるでしょう。
 まず第一は、「先の者が後になり後の者が先になる」というイエス様のことばを思い出します。神の国であるこの歴史の中ではいつでも逆転が起こるということでしょうか。遥か先に走っていたエルサレム教会が、後から誕生したアンテオケ教会に助けられたからです。

 もう一つは援助や献金の際の心得でしょうか。それぞれの力に応じてなすべきですね。たとい良いことでありましても無理はいけないということです。施しというものは、いやいやながらでも、また惜しむ心からでもなく、また強いられてでも無く、自分の心で決めた自分の力に応じてするものなのです。

 聖書のことば
 「 一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。
          コリント人の手紙第二 9章7節

  (PBA制作「世の光」2019.8.27放送でのお話より )

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