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 ♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して73年、
PBA『世の光』を文字で 

■先立つ一人の使い / 板倉邦雄

2016年06月08日 | Weblog
2016/6/8放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「先立つ一人の使い」という題でお話ししましょう。

 イスラエル民族にとりまして指導者モーセは必要ですが、モーセに先立つガイドはもっと重要ではないでしょうか。

 さて主なる神様はモーセに言われました。
 「あなたと、あなたがエジプトの国から導きのぼった民とは、ここ(シナイ山)を立ってわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地にのぼりなさい。」 ( 出エジプト記33章1節 口語訳聖書)


 そして不思議なことばをモーセに語りました。
 「わたしは一人の使いを遣わして、あなたに先立たせ、約束の地の人々を追い払うであろう。」 ( 出エジプト記33章2節参照 )

 一人の使者。モーセに先立って主なる神様から遣わされた一人の者とは誰なのでしょうか。

 新約聖書のコリント人での手紙の中で伝道者パウロは次のように言いました。
 「わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。・・・みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。
  (コリント人への手紙 第一 10章1節~4節 口語訳聖書)

 実は救い主イエス・キリストは肉体をとられる前、モーセの荒野の40年、モーセや国民たちと一緒に、生きる岩・リビングストンとして旅をしていたことになるのです。モーセを導き、国民一人ひとりの先頭に立ち、ある時はしんがりとなってついて来られました。ですからこのモーセに先立つ一人の使者とは救い主イエス・キリストを指しているのです。

 そして更に、主なる神はモーセに言われました。
 「あなたがたは乳と蜜が流れるような豊かな土地に上りなさい。しかし、あなたがたは、心が頑なな頑固な人々です。わたしが旅の途中であなたがたに腹を立ててあなたがたを滅ぼすことが無いように、あなたがたの内にあって一緒にはのぼらないであろう。」
             (出エジプト記33章3節参照)

 主なる神様は「一緒にはゆかない」と言いましたが、一人の使者イエス様と共に私たちと一緒にいてくださるのではないでしょうか。

 この救い主イエス様がこの世の終わりまで私たちと共にいてくださるのです。

 イエス様のことばです。
 「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
    マタイの福音書 28章20節 (口語訳聖書)

 (PBA制作「世の光」2016.6.8放送でのお話より )

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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■主の祈り-52 アーメン  /  大嶋重徳

2016年06月07日 | Weblog
2016/6/7放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。
聖書にはイエス・キリストが私たちに教えてくださった「主の祈り」という祈りがあります。主の祈りは、「アーメン」ということばで祈りを終えます。

 「アーメン」とは、祈りが終わった合図のように思っていたことがありました。教会の礼拝の祝祷で全員がアーメンと言えば教会堂から飛び出して遊びにって良い合図でしたし、食事の前の祈りのアーメンはもう食べていいよの合図でした。「アーメン」と「いただきます」とは同時に言ったものです。しかし「アーメン」には終わりの合図ではなく、「その通りです。今祈ったことは確かにそうです。偽りはありません。」と言う意味があります。アーメンとはことばの確かさを保証する意味があるのです。

 しかし、私たちは自分がお祈りしたことばを「その通りです」と言えるのか?、と問い直すと途端に不安な気持ちになってきます。祈った後、自分は祈った通りに生きていけるのか?、というと祈りからほど遠い生活を繰り返してしまう自分が目に見えているからです。その時、アーメンは実現不可能な不確かな決意表明に過ぎなくなります。アーメンということばは祈りのことばだけで用いられるのではなく、ことばの最初に、アーメンと始めることがありました。イエス様が「アーメン、アーメン」と始められるとき、「まことにまことにあなたがたに言います。」という意味で使われました。つまり、「今から語ることばは確かなことであり、真実なのです。」と神の側の確かの保証を与えることばとして用いられたのです。つまり本来、アーメンとはイエス様だけ用いることができることばの確かさがあり、人間にはとても言うことできない神のことばなのです。

 しかし、そのようなあなたの不確かな祈りの最後に、今日もアーメンと祈るそのアーメンのことばを教えてくださったイエス様が一緒にアーメンと言ってくださるのです。その時に私たちの祈りは実現不可能な不確かな決意表明ではなくなります。私たちの不確かな祈りに神様の確かさをもってその通りだとイエス様が一緒に言ってくださるのです。イエス様は一緒にアーメンと言ってくださる確かさに身を置くからこそ、今日も私たちはそのイエス様の確かさを信頼して、アーメンと祈ることができるのです。アーメンと言うとき、神様の真実が私たちと共にあるのです。

  ( PBA制作「世の光」2016.6.7放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■惑わされてはいけない  /  関根弘興

2016年06月06日 | Weblog
2016/6/6放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 新約聖書エペソ人への手紙4章14節からお読みしましょう。
 「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ人への手紙4章14節、15節)

 この手紙が書かれた当時、教会の中にはいろいろな教えの風が吹き荒れていました。人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略があったというんですね。この「悪賢み」と訳されることばはサイコロから由来したことばで、「サイコロ遊び、いかさま、ペテン」というような意味があるそうです。

 私が小学生の時でしたけど、大きなお祭りがあってたくさんの露店が出ていました。その中にくじ引きの店があったんですねえ。一回10円だったと思うんですけれど、おじさんが持っている竹串のようなものを引いて1等が当たれば豪華賞品がもらえるんです。しかし私は何とか1等を当てるぞと夢中になったんですけど、何度引いても6等しか当たらないんですね。6等はですね、芯が殆ど折れているような寄せ集めの鉛筆でした。結局私は鉛筆の束だけを持って家に帰ったんですねえ。すると父は、「バカだなあ。あれはなあ,当たりが出ないようにちゃんと細工がしてあるんだ。」と言われたんです。純粋無垢な私は大変ショックを受け、兄からも妹からも馬鹿にされ、心が傷ついたんですねえ。

 しかしこの程度ならまだかわいいのですけれど、人生を台無しにしてしまうような悪巧みや教えの風というのもたくさんあるんです。

 パウロはその一つは、永遠の救いを得るにはあなたの行い、あなたの頑張り、あなたの努力が必要だ、という具合にいろんな条件をつけていく教え、それをパウロは「警戒しなさいね」と教えるんですね。

 私たちが罪赦され、永遠のいのちが与えられ、救いを得るためには一体何が必要なのでしょう。それはイエス・キリストが私たちの身代わりに十字架にかかって死んでくださったことによって罪の赦しが与えられ、キリストが三日目によみがえって死に打ち勝ってくださったことによって、新しい命が与えられる道が開かれていったんです。イエス・キリストが私たちの救いの道を備えてくださったんですね。ですから私たちはイエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた救いをただ信じ受け取るだけなのです。救いはキリストの恵みによるんですね。

  (PBA制作「世の光」2016.6.6放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■神殿奉仕の秩序 / 羽鳥頼和

2016年06月04日 | Weblog
2016/6/4放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
 今日は、イスラエルの王ダビデが神殿のために行なった働きについてお話します。

 ダビデは神殿を建てることを切に願っていました。しかし神はダビデに、「神殿を建てるのはあなたではない。あなたの息子ソロモンに神殿を建てさせなさい。」と命じられたのです。ダビデは潔く、神殿を建てることを息子ソロモンに任せました。しかし彼は神殿の建設のための準備を熱心に行います。それほどダビデの神殿にかける情熱が強かったのです。いや、神殿と言うより、神のために働きたいという情熱が強かった、と言ったほうが良いでしょう。

 旧約聖書の歴代誌第一の21章から26章には、ダビデが神殿のために行なった働きが記されています。ダビデはまず、神殿を建設する場所を定めます。そこは神によって定められた場所でした。そして神殿を建てるためのたくさんの資材と有能な職人を調達します。それから、神殿で奉仕するレビ人と祭司たちの職務を定めました。更に、礼拝のための聖歌隊を編成しました。そして神殿の安全管理のための門衛を任命しました。また、ダビデは神殿にある二つの宝物蔵の管理をする人々を任命しました。更に、宝を管理する仕事には外の仕事と言われる任務がありました。これはイスラエルの各地域からの捧げ物を取り扱う仕事だったようです。この任務を行う人々もダビデが任命しました。これらの仕事は神の仕事、王への奉仕と言われました。

 これらのことを見るとき、ダビデが神殿にそして礼拝において秩序を重んじたことが分ります。ダビデは神の秩序を求めました。そして神と人との正しい秩序を求めたのです。

 秩序は堅苦しいと思う人があるかもしれません。もっと自由がいいと思うかもしれません。しかし神の秩序のあるところには安心があり平和があります。そして神の与えてくださる自由があるのです。

 明日は日曜日です。キリスト教会では神の秩序のもとに礼拝をささげます。そこには神による安心と平和があります。あなたもぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。
 (PBA制作「世の光」 2016.6.4放送でのお話より )
 
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■全地よ、主をほめたたえよ / 岩井基雄

2016年06月03日 | Weblog
2016/6/3放送

世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。今日は旧約聖書の詩篇98篇の後半から、「全地よ、主をほめたたえよ」と題して、神様への賛美に溢れる幸いな人生を共に考えてみましょう。

 この詩篇98篇はイスラエルのバビロン捕囚からの回復の喜びを歌った詩篇だと考えられています。自分たちの罪の故に敵国の捕囚となる屈辱を経験したイスラエルの民が、神様の真実と憐みによって解放され、受けるに値しない恵みを受けた喜びを感謝したのです。
 先月は1節から3節のみことばから、恵みと真実に満ちた神について一緒に考えましたが、今日は続く4節から6節をお読みします。
 「全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。
  立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。立琴と歌の調べに合わせて。
  ラッパと角笛の音に合わせて、主である王の御前で喜び叫べ。

 
 キリスト教会の賛美は天地万物を創造された神様をほめたたえる歌です。賛美にはクラシックやゴスペルなどいろいろなジャンルがありますが、この詩篇の賛美は、私たち人間だけではなく、全被造物が神様をほめたたえるという壮大なスケールのものです。立琴やラッパや角笛などの楽器や歌に合わせて大自然自身が美しい調べを奏で、創造主である神様の愛と真実と力強さを賛美し、感謝を表す、ということの幸いが歌われているのです。
 どのような困難な状況に置かれても、その中にあって神様を賛美し、ほめたたえ、感謝を捧げることができる、それこそがゴスペルや賛美の醍醐味です。そこには何の打算も計算もなく、ただ天地万物を創造された神様のみが賛美され感謝されるにふさわしい方だと信頼することこそ私たちの人生の基盤だという信仰また考え方があるのですね。

 あなたの心も神様の真実さに生かされ、内側から感謝と賛美の人生へと変えられていくことができるのです。どうぞお近くのキリスト教会に来て、感謝と賛美を溢れさせる人生へと一歩踏み出してみませんか?

 聖書のことば
 「主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。
  詩篇96篇2節

 (PBA制作「世の光」2016.6.3放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■神の手 / 福井 誠

2016年06月02日 | Weblog
2016/6/2放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「神の手」です。それでは第一サムエル記5章11節から読んでみましょう。
 「そこで彼らは人をやり、ペリシテ人の領主を全部集めて、『イスラエルの神の箱を送って、もとの所に戻っていただきましょう。私たちと、この民とを殺すことがないように。』と言った。町中に死の恐慌があったからである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。

聖書にはペリシテ人という民族が出てきますねえ。ペリシテ人はその昔、パレスチナ沿岸に住んでいて、鉄の武器を所有し、高度に組織化され訓練された民族でした。しかも彼らは野心に溢れ、征服した地域一体の住民を奴隷にしていくのです。こうしてイスラエルに深く侵入したペリシテ人たちはイスラエルの人々が大切にしていた神の箱を奪って、それを戦利品として自分たちの町に持ち帰りました。そこには彼らの神ダゴンを祀る神殿があって、そこに神の箱を安置したのです。

 このあたりが何となく日本人に通じるものがあると思いませんか? 唯一まことの神を求めるのではなくて、あらゆる神を認め、つまり神棚もあれば仏壇もある、と言った宗教混交主義の考え方がありますねえ。

 まあそれは良いとして、彼らの神殿に神の箱を運び入れた後、実に不思議なことが起こりました。神殿に安置されていたダゴンの神が倒壊するのです。つまり神殿に運ばれたイスラエルの神がもともと安置されていた神を切り出すと言う、まるで喜劇のようなことが起こるのです。しかしこれだけでは悟りのないペリシテ人に、さらなる神の災いが起こりました。町中に疫病が発生するのです。聖書ははっきりとそれがまことの神の手によるものであると語っていますね。しかしペリシテ人たちは自分たちの神ダゴンが無力であることは認めてもイスラエルの神の力を認めることはできませんでした。けれどもそれは人間の現実をよく言い表していますねえ。いろいろと私たちの生活環境に直接働いて神様がおられることがはっきりしていても、人はそれを素直に認めることができません。信仰を持つには、素直な遜った心が必要です。神様は私たちに災いをも祝福をももたらすお方です。目に見えない神様を認めて、神の祝福こそ素直に受けていくものでありたいものですね。

(PBA制作「世の光」2016.6.2放送でのお話より )

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■神が民を撃たれた / 板倉邦雄

2016年06月01日 | Weblog
2016/6/1放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。
 今日は「神が民を撃たれた」という題でお話ししましょう。

 私は聖書を連続でお話ししてきました。でも時々、話したくないなあという聖書の箇所に出会います。今日もそのような聖書の箇所です。でも今日の聖書の箇所も神様のことばですのでお話ししましょう。

 さて、金の子牛を造って欲しいままに振る舞った人々をモーセは目撃しました。モーセは宿営の門に立って叫びました。「すべて主なる神に付きたいと願う人は私のもとに来なさい。」 するとレビ族の人々が皆モーセの元に集まってきました。そこでモーセは彼らに命令したのです。「イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたがたは腰に剣を付け、宿命の中を門から門へ行き巡れ。そして金の子牛を神とし、お祭りし、金の子牛礼拝で欲望のままに振る舞った兄弟友人隣人を殺害しなさい。』」 レビ族の人々はモーセのことば通り実行したので、その日、国民の内凡そ3000人が剣で倒れていったのです。

 それにしても愛の神様がこんなひどいことをモーセに命じるなんて信じられません。山の上でモーセは金の子牛を造って偶像崇拝に走った人々の罪のために執り成しの祈りをしたではありませんか。モーセの執り成しによってイスラエル国民に下すと言われた災いについて神様は思い直された、と書いてあるのに、剣で殺害せよ、と言うのでしょうか。 そんなに秋の空のように神様はお心を変えられるのでしょうか。

 でも一つだけ言えることは、キリストの神様は愛の神であると同時に、義の神であると言っておきましょう。

 さて、モーセは再び主の元へ帰って、再び執り成しの祈りを捧げました。「ああ、この国民は大きな罪を犯し、自分のために金の神々を造りました。今もしあなたが彼らの罪を赦されるならば。しかしもしかなわないならば、どうか神よ、あなたが書き記された命の文から私の名を消し去っても構いません。」 私のいのちの代りに民のいのちを救ってください、という祈りです。この祈りは十字架上のイエス・キリストの祈りでもありましたねえ。

 (PBA制作「世の光」2016.6.1放送でのお話より )

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