世の光の時間です。 お元気でお過ごしでしょうか。 関根弘興です。 今日もさわやかに一日を始めていきたいですね。
今日は最初に新約聖書ヨハネの福音書の6章の28節と29節のことばを御紹介します。
「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
さて今日は、聖書が教える信仰ということについてご一緒に考えていきましょう。
イエス・キリストが歩まれた当時、ユダヤの社会に生きた人たちは何か立派なことをし、神の戒めを守り、善行を重ねることが神のわざを行うことだと考えていました。 当時の宗教家たちは、自分たちこそ宗教的な戒めを守り立派に生きているのだから言うことなし! 神のわざを実行している熱心な人だと考えていました。ま、彼らのアプローチはいつも、自分たちが神様のためにこれをしました、あれをしました、だから自分たちは信仰深いのです!、という思いをもっていたんですねえ。
ときどきこうしたことを私たちも考えますね。 日本では、修行によって何かを得るという考え方がたくさんあります。自分の修行によって努力によって頑張りによって何とか救いを得ようとする、ま、そうした行動ですね。
しかしイエス・キリストは当時の人たちが予想もしていなかったことを語られました。何て語られたのでしょう。
「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」こう語られたのです。
ここで「神が遣わした者」とはイエス・キリスト御自身のことです。つまり、神様が私たちに命令し、求められることはただ一つ、それはイエス・キリストを信じることだ、ということなんですねえ。決して修行や難行や立派な行いではなく、イエス・キリストを信じること、これこそが神様があなたに求めているたった一つのことだと言われるのです。
そしてこの「神のわざ」とは、「神様によって与えられるわざ」という意味もあるのですね。どういうことかと言うと、あなたがイエス・キリストを救い主として信じる・受け入れることができたとき、そのことが神様のなさった素晴らしいわざだ、ということなんです。
信仰とは、自分が一所懸命信じたから持つことができたというようなものではなくて、イエス・キリストを信じることができたとするならその信仰こそ神様があなたにお与えになった恵みのわざなのだ、ということを知ってください。だから信仰は誰も誇ることができませんね。 でも単純にイエス・キリストを救い主として信じる信仰はすべての人に開かれているのです。
(PBA制作「世の光」2009.3.10放送でのお話しより)
******
さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。予約なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
***
このサイトは URL名として
http://yonohikari.biblical.jp
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。