ふうるふうる・たらのあんなことこんなこと

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改憲についての本から 5 軍隊はいらない

2013-09-27 12:45:35 | ありがとうございます

中浦和“ふうるふうる”のたらです。

「憲法が変わっても戦争にならないと思っている人のための本」(高橋哲哉・斎藤貴男 編著 日本評論社)から抜粋します。


●どこかの国が攻めてくるかもしれないから、やっぱり軍隊は必要では?
 他国と敵対的な関係となったときに、初めてその国が〈脅威〉となります。〈脅威〉であるから政治的に敵対するのではなく、政治・外交上の敵対関係(不正常な関係)が相手を〈脅威〉にしてしまうのです。したがって私たちは、〈脅威〉があるから軍隊をつくり軍事的に備える、どこかの国が攻めてくるかもしれないから軍隊だ、というスタンスに立つのではなく、いかに〈脅威〉をつくらないか、いかに日本に攻めてくる国をつくらない(その国にとっても日本が大切な存在になる)かという観点で外交努力をしていく必要があるのです。周辺諸国との友好関係が築かれれば、軍隊で常に警戒するということも必要なく、相手の警戒心を和らげ、相互に軍縮をはかることも可能です。

●戦争に行っても、愛する人は守れない
  国家権力が国民を犠牲にして行うというのが戦争の本質だと言いましたが、「自分は強制されなくても国が危機になれば、愛する人を守るために戦う」という人が出てくるかもしれません。
 問題は、それがどういう戦いなのかということです。愛する人のために戦うと言いながら、じつは国家が発動した戦争にただ動員されていくしかない状況になっていないか。それ以外の選択肢がないところで、戦う理由を自分で納得するために、仕方なくなされたものにすぎないのでじゃないのか。
  敵と戦うことによって、戦争をますます長引かせ、それによって愛する人が非常な苦難をなめることになるかもしれない。
 個人的な決意というものをはるかに超えたところ、国家権力同士の戦いが起こっていますから、そのなかで個人的に愛する人を守るということには、実際にはまったくならないということを、まず冷徹に見る必要があるだろうと思います。
 ですから、もし、本当に愛する人を守りたければ、自分が国家の命令で戦争に行かなければならなくなる状況をつくらない、ということの方がよほど意味があるわけです。
  さらに、戦争に行けば、あるいはその人を「銃後」で支えれば、愛する人とともに自分が加害者になってしまいます。
 もし、本当に命を捨てる覚悟があるのなら、国家の命令によって、従順な国家の手駒となって敵を殺すのではなく、戦争を続ける国家を批判し、その体制に終止符を打つために命を捨てるという選択だってあるわけです。たとえば、映画になっているドイツの「白バラ抵抗運動」の人たちはそういう決断をしました。
  そして今日の日本であればなおさら、戦争によって国を守ることもできなければ、愛する人を守ることもできないでしょう。
 日本は小さな島国に人工が稠密で、現在では都市化も情報化も非常に進んでいる。エネルギーや通信のインフラが破壊されれば、都市は大きく打撃を受けます。原発も何基も稼働しているので、そこにミサイルを撃ち込まれたらその被害の大きさは計り知れません。そういうところで軍事力によって他国とけんかを始めたら、国民の生命・安全は大変なリスクにさらされます。愛する人はそのなかに巻き込まれることになるわけです。
 本当に愛する人を守りたければ、何よりも戦争だけはしてはならないのです。
 ですから、まず他国と戦争状態に入ることを回避する、そのような状況をつくらない。そのためにあらゆる政治的な力を発揮し、努力を続けていくことが重要だと思います。

 
 


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