花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

四日市湊物語⑧ 蔵町の暮雨

2021年08月17日 | レモン色の町

“蔵町の暮雨”出口對石 画(知られざる四日市の面影、泗水十二景より)四日市博物館

江戸時代19世紀初めに描かれた「東海道分権延絵図」にも、蔵町あたりには瓦葺の蔵が建ち並んでいました。その頃の建物の多くがこの絵にも描かれていると思われます。画面の奥に建つ洋館は四日市銀行(三重銀行の前身・現在は三十三銀行)の本店です(明治43年建設)。雨に濡れる柳の枝がぼんやりと描かれているところに、写真の影響が感じられます。

明治28年、北納屋の運河沿いに創立された四日市倉庫会社の本社事務所。木造の半鐘と開栄橋が架かる。この通りの左(南側)には、郵便局が建っているはずである。

江戸時代、四日市の湊は波静かで水深く、東西交通の要衝にあって、天然の良港であった。明治3年、先覚者 黒川彦右衛門、佐伯又右衛門、福生裕作の三人は東京の回船会社に出資して、東京~四日市間に汽船を運行させることが出来た。廻潤丸、清渚丸、貫効丸と次々に就航して、全国からの集散で湊四日市は一躍有名となり『会いはせんだか遠州灘で、二本マストの貫効丸』とうたわれるまでになった。

しかし、安政の大地震で昌栄新田の堤防が決壊し、流れ出た流砂が港の入り口をふさぎはじめ小舟の出入りすら困難となった。この光景を見て一念発起したのが稲葉三右衛門であった。

稲葉三右衛門翁の、苦労の果ての功績は令和3年5月のブログに書かせていただきました。

2021年5月3日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

2021年5月4日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

稲葉三右衛門によって修築された四日市港は、四日市〜東京間の定期高路線も多くなり、すでに明治15年には汽船の入港724隻、出港740隻にのぼり、同22年には特別輸入港、30年には特別輸出港に指定された。その後、伊勢丸がセメントを積んで仁川へ、住吉丸が満州から大豆・豆粕を積んで入港するなど外国貿易も活発化、明治32年には正式に開港場として指定された。

明治28年の四日市港付近町村略図より(真田氏提供)

発行 四日市商業会議所

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四日市湊物語 ⑦ 開栄橋西詰南角

2021年08月16日 | レモン色の町

“その男もまた、近代国家誕生に命を懸けた時代の立役者の一人である”で始まる、北野保さんの“『続 四日市浪漫紀行』開栄橋西詰に境界石現存”の文章より。

前島 密

従来の飛脚に代わる郵便制度の創設は、日本の“近代郵便の父”と称される前島 密が、明治3年6月2日行った「新式郵便」に関する建議に始まる。そして、明治4年3月1日から、東京・京都・大阪の三都市と東海道の62の宿駅間で郵便の取り扱いが開始された。最初は、東京・京都・大阪に駅逓司郵便役所と「書状集メ箱」を東京11カ所、京都4カ所、大阪7カ所設置し、地理に詳しく足の速い郵便集配員(東京12人・京都8人・大阪10人)を選び、集配業務を行った。東海道の各宿駅にも郵便取扱書と郵便ポストが設置されたが、宿駅の駅逓業務の一環として行われたため、伝馬所の一部で行われ、運送員は一人でかなり重い郵便行李を担いで走った。

北野保著 続 四日市浪漫紀行より

四日市では、当初、南町に郵便取扱書が開設されたが、後に浜町に移り明治12年1月には、蔵町(現 中納屋町)開栄橋西詰南角に移転し、郵便業務が続けられた。この場所が浜往還一本松が立っていた第二の四日市湊であった。写真は、この場所の南東角に現存する(平成29年)高さ24センチほどの境界石で、南側表面には『逓信省用地』の5文字が2列で刻まれている。

境界石がなくなった?の声を聞き、再度出かけてみたが、空き地の角にそのまま残されていたのを確認した。

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四日市湊物語 ⑥七里の渡しとの争議

2021年08月15日 | レモン色の町

蔵町にあった浜往還一本松の湊は、不動寺に次ぐ二代目の四日市湊である。この港ができる以前(1596年)から、回船という渡海業が営まれていた。四日市の回船は、株主によって組織されていて、奉行所の許可監督のもと営業されていた。そして四日市の回船は、度々他の回船業者と争いを起こしている。

寛保2年(1742年)桑名宿から道中奉行所に苦情が出る。四日市回船の尾張~四日市便(十里の渡し)の影響で、尾張~桑名間の七里の渡し利用が激減したという事だった。憤慨した四日市回船側は受けて立つ。

  • 家康渡海の由緒以来、四日市湊は地子高(税金)免除になっている。
  • 文禄、慶長の役の際には伊勢国13が浦の水主割振頭であった。
  • 万治元年、天和2年、正徳元年に制定された浜御高札には、四日市〜熱田間の船賃が記載されていて公認である。

ことを挙げ、江戸の評定所で争った。結果、この時は従来通りの通船が認められたが、その後も桑名は度々訴えを起こした。こうして約20年間に及ぶ四日市、桑名の回船争議は、事前予約で決着した。すなわち、諸大名や御用旅人で熱田と四日市間を直渡海するものは上り下りともその旨先触れを出すこと。先触れのない一般の旅人については旅人の随意とするものであった。

四日市は、良港に恵まれていたただけでなく、回船業者も威勢が良かったようだ。

明治になってからの、私鉄関西鉄道の国営鉄道との争いを思い出すが、おだやかな伊勢人かと思いきや、結構気性は強かったようだ。

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悲劇の大津皇子

2021年08月14日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

壬申の乱で勝利を収めた天武天皇は、奥方の持統天皇と、自分の子と天智天皇の子らとともに吉野へ行幸した。壬申の乱が兄弟間での戦だっただけに、心配だったのだろう。天智天皇は、持統天皇との間の子、草壁皇子を次期天皇にしたいので、異母兄弟間で仲良くやってくれと子供らに“吉野の誓い”を立てさせた。ところが皮肉にも腹違いの四男、大津皇子が賢くて良い男だった。

大津皇子は、石川郎女(いしかわのいらつめ)をめぐって、草壁皇子と争っている。

あしひきの 山のしずくに 妹待つと 我(あれ)立ち濡れぬ 山のしずくに

(あしひきの=山の枕詞)山のしずくに濡れました、貴方を待っていて立ったまま濡れました 山のしずくに

石川郎女の返事はというと

我(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしずくに ならましものを

私を待っていて、貴方が濡れたという(あしひきの=枕詞)山のしずくに私がなれたら寄り添えるのに

大津皇子

686年、天武天皇が崩御すると、持統天皇は我が子の、草壁皇子を次期天皇にさせたいがため大津皇子を謀反の罪で捉え、自害へと追い詰めた。享年僅か24歳、辞世の歌・・・

百(もも)伝う 磐余(いわれ=自宅があった場所)の池の堤に 鳴く鴨(かも)を 今日のみ見てや 雲隠り(くもがくり)なむ ・・・鴨の姿を見られるのも今日限り、私は死んでしまうのだろうか

大津皇子は、謀反の罪で取らえられる直前に、伊勢で斎宮をしている姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)の処に密かに会いに行っている。二人は同じ父母を持ち早くに母親を亡くしていた。夜を徹しての相談事は尽きなかったと想像できる。弟を見送る大伯皇女は・・・

我が背子(せこ)を 大和へ遣(や)ると さ夜ふけて 暁露(あかときつゆ)に 我(あ)が立ち濡れし

弟の大津皇子を大和に帰し見送ろうとして、夜も更けて暁の露に私は立ち濡れたことだ

大和へ戻った翌日、大津皇子は捉えられ自死させられた。弟の屍を二上山に葬った時の大伯皇女の歌

うつそみの 人なる我(あれ)や 明日よりは 二上山を 弟(いろせ)と我(あ)が見む

死んだ弟と違いこの世の人である私は、明日からは弟の埋葬されている二上山を弟だと思って眺める事であろうか

二上山

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眠れないほどおもしろい 万葉集

2021年08月13日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

663年(ちなみに 壬申の乱は672年)百済に出兵した白村江の戦いで日本軍は、けちょんけちょんに大敗した。おかげで新羅や唐からの防衛のため、国民に北九州や対馬・壱岐への徴集がかけられた。御上は3年間、国の防備にあたれという。しかも、解任後は現地解散。故郷にたどり着くまでに亡くなった人も多かった。命を懸けた旅立ちだった。

防人に 行くは誰(た)が背と 問ふ人を 見るが羨(とも)しさ 物思(ものも)ひもせず   大伴家持

〈防人に行くのは、どなたの夫と悲しみもなく聞く人を見るとうらやましい〉他人事とみる世間の目は冷たい・・・。いつの時代も同じですね

立ち鴨(こも)の 発ちの騒きに 相見てし 妹が心は 忘れせぬかも

(立ち鴨の=枕詞) 出発する騒ぎの中に、共寝をした妻の優しい気持ちは忘れられない。

旅だった夫を想っている奥さんの歌

我が背なを 筑紫へ遣(や)りて 愛(うつく)しみ 帯(おび)は解かなな あやにかも寝も

私の夫を防人として筑紫へ旅立たせて、いとおしさに私は帯を解かずに夫のことを案じながら寝ようか

夫婦の別れ。家族との別れ。戦は何時の時代も残酷でした。

防人の詩/さだまさし(3333 in 武道館) - YouTube

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くるべ官衙遺跡と万葉集

2021年08月11日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

天智天皇が逝去すると、吉野に篭っていた弟の大海人皇子(天武天皇)が、息子の大友皇子に対して兵をあげた(壬申の乱)。皇位を争う戦だったが、その裏には額田王(ぬかだのきみ)をめぐる三角関係という説もある(教科書にも載っていて有名)。

あかねさす 紫野草(むらさきの)行(ゆ)き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖ふる

額田王が求愛してくる大海皇子に対して詠った。以前は大海皇子と額田王は夫婦関係だったが、この時は離婚して天智天皇と夫婦だった。(ヤヤコシイ)

“大海皇子さん、ラブコールするのはやばいよ。旦那の天智天皇が見ていますよ”

対する大海皇子の返事は?

紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻ゆえに 我恋めやも

“兄の妻になってしまった貴方を、私は今でも恋い慕っているのです”この歌は宴の場で公に披露されている。この時は、みなさんもう良いお年になっており、余興の席でのご愛敬・・・という事だったのかも。

珍しくするっと読みました

天武天皇と聖武天皇から“くるべ官衙遺跡”へ出かけたが、親切な説明に、万葉集に興味が広がった。恋愛歌も面白いが、白村江の敗戦から北九州の防人として駆り出された人達の哀切を謡った“防人歌”には泣かされる。つづく (で・・・椙山先生の湊は少し休憩です)

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四日市湊物語⑤浜往還一本松

2021年08月10日 | レモン色の町

まず、椙山 満先生に、一礼!

幕政時代四日市湊燈台付近の景。四日市市中部 多気直三氏(明治28~昭和41)が、昭和15年頃、吉田勝太郎市長に寄贈せしもので、2代目の湊と浜往還一本松が彩色で描かれている。白砂の浜辺に繋がれた舟に乗り込む旅人、荷物を担いで舟に向かう速足の客たちの頭上に大きく茂る浜往還一本松と木造の大型の燈明台が、幕政末期の湊の潮風の臭いを感じさせる。

享保年代(1716~1735)に地図には勧進橋とあるが、明和5年(1768)の絵図には思案橋と記されているところから、この33年間に橋の名は改名されている。この思案橋の急速な縮小の歴史からみても初代の湊から二代目の湊に移り変わる町の変化の有様が伺われる。

読みにくいが“勧進橋”とある

この二代目四日市湊には浜往還一本松という雄大な老松がそびえていた。

第二期の湊に松の木が描かれている

昭和5年の市史によれば、浜往還一本松は当時蔵町にあった郵便局の東、開栄橋に西詰南の位置にあった。当時は旧陣屋(第一小学校)玄関前にあった駒繋ぎの松(慶長5年6月20日徳川家康当初通過宿泊の際、その乗馬を繋いだという名松で、明治9年12月伊勢農民暴動の際、旧陣屋建物と共に焼失)と、新丁不動寺の龍灯松よりも尚遥かに雄大な老松であって、漁船商船入港の目標たるのみならず、夏季乗降船客及び牛馬の納涼樹として非常に貴重せられ、官憲の保護亦すこぶる厳重だったが、安永元年(1771)大地震以来、しばしば高潮のため海水の浸潤をうけ遂に安政4年(1857)枯死するに至った。その後この位置に変わりの松が植え付けられ、これまた官憲の保護厳重であったが、開栄橋架設の際惜しくも取り除かれたのである、と記されている。

明治40年頃の開栄橋と2代目四日市湊のあと。浜往還一本松の代わりに柳(松?)と半鐘が立っている。

“四日市の100年”より 納屋運河の開栄橋(明治36年)橋を渡った左手には四日市郵便局があり、半鐘の脇には浜往還の松(柳?)が見える。橋のたもとの右手は四日市倉庫(株)、その奥の洋館は四日市銀行と、倉庫や事務所が立ち並んでいた。

近年の開栄橋。郵便局のあとの建物も、現在は壊された。

建物の南に埋まっていた“郵政?”の印。今は無くなっていると聞きましたが?

追記:8月16日、確認に出かけた。間違いなく境界石は現存していた。とすると、数年前に撮ったこの境界石は、何だったのか???“郵政”の字が見える。しかし角地ではなさそうでアリマス。

 

 

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四日市湊物語④思案橋

2021年08月09日 | レモン色の町

柳通を真っ直ぐ港方向へ進むと、23号線の手前に“思案橋”がある。橋というよりも橋らしき形が柳通りを挟んで造ってある。

此処は昔は築地と呼ばれて新丁不動松原にある四日市湊への入り口をなし、東の州浜へ長さ十四間の土橋が架かって下を漁船が往来していた。

前回、位置が間違っていた。ここになる

天正10年6月、本能寺の変を聞くや泉州堺に滞在中の徳川家康は急遽京都を避け、伊賀路を経て当地に至り、黄昏の土橋に立ち、行先不穏な陸路を行くか海路を選ぶか深く憂い思案に暮れた。その時地元の者船を仕立て、夕方密かに陸を離れたが、ほどなく怪しい怪鳥の羽音あり、後より迫る追手の如く聞こえ、不安な夜の渡海ではあったが無事尾州知多郡常滑渡り恙(つつが)無く浜松に帰城したと伝えられる。

橋の名はその後“勧進橋”、郡山私領時代には思案橋と呼ばれ、明治26年長さ三間余りの石橋に改められたが、昭和20年戦火をくぐり小破し、古柳の大樹も焼失、同28年運河並びに水門の埋め立てと柳通りの拡幅工事の際、惜しくも廃止された。

空襲直後の思案橋 天保の地図と比較すると、道の曲がり(赤丸の部分)から思案橋の位置が確認できる

今日ここに 市当局をはじめ 地区内外の企業並びに有志の方々のご尽力により 郷土四日市と共に生きたこの橋の数百年の歴史を 柳と共に蘇らせる願いがかなえられた 昭和61年5月吉日           港地区連合自治会

思案橋横に立っていた柳の巨木。柳通りの名前のいわれだと気づいた。

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四日市湊物語③浜往還の先に

2021年08月08日 | レモン色の町

寛文時代の終わりころ(1670年頃)から新丁や築地(子畑方)・丸池・納屋新田・浜新田(1699年)などが次々と埋め立てられて、1600年代の末 つまり元禄時代に湊は納屋地の東の海岸(今の蔵町開栄橋西詰)に移り、西町からの札の辻(東海道との交差点で陣屋の高札場があったのでこう呼ばれた)を通ってここまでくる浜往還という道も整備されて、ここに二代目四日市湊の時代を迎えることになる。

享保時代

享保時代の地図を見ると、勧進橋(思案橋)より下流の州浜は、洲新畑とか納屋地と名付けられ、納屋町という道筋も出来ており、新丁不動松原の初代の湊の海岸は幅の広い川岸となってしまっている。文化5年(1808年)には阿瀬知川の大改修工事が行われ、それまでは川下の神明南(今の朝日町南部)で北へ迂回していた流れを、出屋敷裏(昌栄町)より野寿新田(尾上町・末広町)で海に流出せしめたため、不動松原にあった初代の湊は遂に消滅、思案橋下の川幅も狭くなって橋の長さも6間に縮小された。

天保時代

天保時代(1830~1843)から明治までの約30数年間にはさらに短くなり明治を迎える。椙山満:四日市市史の研究より

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四日市湊物語②龍灯松

2021年08月07日 | レモン色の町

椙山先生の叙情あふれる文章を御味わい下さい。

水谷百碩画“竜灯之松不動寺の晩鐘”竜頭の松は、不動寺境内にあった大きな松です。その高さから、湊に出入りする船の目印となり、いつしか竜灯の松と呼ばれるようになりました。枝の沢山の添え木が老木の風格を感じさせます。不動寺の晩鐘は、四日市の名所として近江八景にならったものです。

西方の夕空に一番星がまたたきはじめる頃は、不動松原にひときわそびえ立つ龍燈松の明かりを頼りに、潮の香を満載した漁船たちが次々と帰帆しては家路を急いだことであろう。この入江は、その先に早船町(後の新丁の北方)あたりで急に東へ曲がり、丸池で膨らむとまた北にまたがって川幅が狭くなり、築地の土橋をくぐりぬけてまた広くなり、やがて御滝川(三滝川)の川口と合流して海に注いでいた。その土橋は昔、四日市でも東海道が御滝川に架かる土橋(後の三滝橋)と並ぶ二大橋のひとつで、享保及び享和年代(1716~1802)に長さ14間、幅2間もある大きな橋で、のちに 勧進橋 更に 思案橋 と呼ばれるようになる。海から帰ってくる漁船は、川口近くの大きな中州に沿って南に舵をとり、築地の土橋をくぐり丸池新田で西へ折れてこの浜に着く。

出口對石画“不動寺の暮雪”不動寺には竜頭の松という名松がありました。樹齢300年を超えるこの松は、その昔、毎夜、竜が明かりを点したという伝説がありました。對石は枝一杯に積もった雪の景色として描き、その大きさ表しました。大正11年には国の天然記念物に指定されましたが、同15年に惜しくも枯れてしまいました。

不動松原にそびえる龍灯松と呼ばれる巨松には、龍神様が夜ごと燈篭に火をつけにこられ、漁船の安全を護ったと伝えられ、その松の根元には白蛇が住んでいた。この白蛇は日頃から三つの悩みを持っていたが、ある日龍神様のお導きで白龍大明神となることができ、龍灯松の精として松を護ったという。大正時代に入り龍灯松は高さ30メートル、根幹の周囲約10メートルの威容を誇り、大正11年天然記念物に指定されたが、大正14年の春から衰えはじめ、大正15年9月枯死して樹齢500年の長い“海の護り”の歴史を閉じた。

常磐や窪田から農業用水として流れ出た水は、町へ入ると汚水を集めて海へ流れ出ていきました。昔の地図の水の流れを色塗りしてみました。市街地に入るをほとんどが下水となっています。

近鉄駅西

近鉄駅東

 

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