花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

四日市湊物語⑪国産振興大博覧会

2021年08月23日 | レモン色の町

昭和11年、新港竣工と同時に千歳町で開催された「国産振興大博覧会」は、国全国的にも空前の大博覧会で、陽春の港四日市は全国各地から押し寄せた人波で連日大賑わいであった。

2020年1月12日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

2020年1月13日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

2020年1月18日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

2020年1月24日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

2020年1月27日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

2020年4月17日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

その後、四日市港は塩浜地区や稲場町地先(大協町)、午起地先において用地造成が行われ、海軍燃料廠や大協石油、浦賀ドッグ(終戦で未完成)、などが立地し、工業港への性格を強めていった。


最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (伊勢生まれの下総人)
2021-08-23 20:46:09
四日市博の前年、昭和10年には日本板硝子四日市工場が設置されました。確かこの年に阿智胡地亭さんの父君が日本板硝子に入社されたと氏のブログで読んだような記憶があります。工場の場所はこの記事にある四日市博俯瞰図絵の大会場(後の公会堂)の右手の白地のところと思われます。
その後、大会場、迎賓館、救護所の辺りは日本板硝子に譲渡されたものと想像しています。おそらく、その時期は大会場が市役所近くに移築された昭和25年頃ではないかと。そして、移築されなかった迎賓館はそのまま工場の事務棟に、また救護所は工場の診療所になったのではと想像しています。このブログの以前の記事に載った救護所の写真の入口が、私の記憶の中の診療所の入口とそっくりなのです。
昭和25~6年頃、工場の診療所を稼働させるために、職員を募集したのではないか。そして薬剤師であった私の父は運良く日本板硝子に就職。私達家族は昭和26年に錦町(現三栄町)の社宅に入居することができました。社宅から通りに出るとすぐ目にするお馴染みの風景は移転済みの公会堂と真新しい市役所のビルでした。
返信する
歴史はさかのぼり… (タケオです)
2021-08-24 09:57:55
公会堂、救護所、市立病院・・・このあたら興味を引くところでゴザイマス
コメントありがとうございます。
昔の世界が広がります
返信する
千歳町の歴史など (阿智胡地亭辛好)
2021-08-24 12:38:48
タケオさんのブログのお陰で、自分にゆかりがある四日市市内のあちこちの場所の歴史を楽しんでいます。
中学生になると暗くなると蔵町の家から稲場町や尾上町、諏訪の繁華街などあちこち乗り歩きましたが、本当に狭い範囲での行動でもありました。伊勢生まれの上総人さんのコメントによっても迎賓館や救護所の面白い事実を知りました。あの工場は国産振興大博覧会と大いにご縁があったのですね。引き続きブログを楽しみに読んでまいります。
返信する
Unknown (伊勢生まれの上総人ではなく下総人😄😄😄)
2021-08-24 17:09:56
四日市市民病院は昭和11年にできたとのことです。博覧会終了後に救護所が市民病院になったということでしょうか。その市民病院も昭和24年には市立病院と統合されて千歳町から移転することになります。大会場の移転時期、昭和25年とほぼ重なります。
そして、日本板硝子の診療所になったのでは。
あゝ、あの頃に戻ってみたい。🤔🤔🤔
返信する

コメントを投稿