花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

四日市湊物語③浜往還の先に

2021年08月08日 | レモン色の町

寛文時代の終わりころ(1670年頃)から新丁や築地(子畑方)・丸池・納屋新田・浜新田(1699年)などが次々と埋め立てられて、1600年代の末 つまり元禄時代に湊は納屋地の東の海岸(今の蔵町開栄橋西詰)に移り、西町からの札の辻(東海道との交差点で陣屋の高札場があったのでこう呼ばれた)を通ってここまでくる浜往還という道も整備されて、ここに二代目四日市湊の時代を迎えることになる。

享保時代

享保時代の地図を見ると、勧進橋(思案橋)より下流の州浜は、洲新畑とか納屋地と名付けられ、納屋町という道筋も出来ており、新丁不動松原の初代の湊の海岸は幅の広い川岸となってしまっている。文化5年(1808年)には阿瀬知川の大改修工事が行われ、それまでは川下の神明南(今の朝日町南部)で北へ迂回していた流れを、出屋敷裏(昌栄町)より野寿新田(尾上町・末広町)で海に流出せしめたため、不動松原にあった初代の湊は遂に消滅、思案橋下の川幅も狭くなって橋の長さも6間に縮小された。

天保時代

天保時代(1830~1843)から明治までの約30数年間にはさらに短くなり明治を迎える。椙山満:四日市市史の研究より

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