大正9年に作られた築港計画図 前回掲載の明治19年デ・レーケ氏の計画図と比べていただくと面白い
この1号地は、明治43年から大正6年にかけて,当時の南起海岸(西末広町))と呼ばれた松原の海を埋め立てて出来上がった新四日市港の母体となる地区で、大正6年12月18日末広町と命名され、ここを基盤としてその東側の海の中に人口島を造成することになる。
明治40年 ・第1期埋め立て工事で消える直前の南起海岸の夕景(四日市の100年より)
大正11年。埋立は完了している。
地図の右側に四日市銀行と蔵町がある。出口對石市の絵がここから描かれた。
2021年8月17日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)
その島が第2地区とも2号地とも呼ばれ、大正4年から14年にかけて埋め立てられていった。大正14年4月1日千歳町と命名され、末広町との間に生まれた水路の浚渫が始まるわけであるが、4大事業(阿瀬知川の開さく)によって、阿瀬知川口が名を変え末広川口と呼ばれるようになったこともあって、この末広町・千歳町の間を南北に走る延長2664メートルの水路を誰言うともなく末広川(運河)と呼ぶようになった。
昭和13年
2号地の埋め立てが急ピッチで進みつつあった大正9年頃この末広川運河に架橋が計画された。一つは、将来第1埠頭のできる近くに臨港橋を、次には運河の中間部に臨港鉄道の橋梁(四日市港駅鉄道橋)を、北方では尾上町と2号地を結ぶ産業道路に末広川橋であった。この三つはすべて可動橋(跳上げ橋)として計画され、これが出来れば全国に類例をみないニュールックの築港になるのである。 椙山 満氏 四日市市史の研究 第7集 より
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