花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

昌栄橋は何時できた?完結編

2021年05月17日 | レモン色の町

昌栄橋は何時できた?”で、明治44年から大正11年の間と推理しましたが、どうも緩すぎて後味が悪い思いを致しておりました。

2021年5月12日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

そこで四大事業のことから調べなおしました。

稲葉三右衛門氏による港改築以来、四日市湊は益々繁栄の様であった。しかし、宮の渡し(名古屋港)の追い上げも激しく、その地位を脅かしかねない様相となった。そこで、明治39年の市議会では“四大事業”を掲げ実施することとなった。それは、

間違いがありましたので訂正いたします。(下総人様よりご指摘)

(正)

  • 諏訪前道路(諏訪新道)の改修 東海道の諏訪神社からから東へ港まで、延長512間にわたり幅4間に拡幅する。
  • 堀川浚渫(しゅんせつ)開栄橋から北へ思案橋の入り江を平均深さ3尺に浚渫する。
  • 阿瀬知川筋運河開墾 阿瀬知川運河を延長250間にわたり、幅15間、深さ4尺に開墾して、船の往来を易くする。
  • 海面浚渫・埋立 港口を浚渫し、その土砂を用いて水面(元昌栄新田)を埋め立てる。

こうして明治39年12月工事は始められたが、暴風雨等で工事は難航、明治43年ようやく竣工した。(明治43年四大事業完成)

四日市史より

この四大工事を踏み台に明治43年から昭和3年にかけて第1期修築工事に取り掛かることとなる。

明治43年の計画絵図 この時昌栄橋は予定に入っている

当初、県の単独工事(県の事業で行われた)であったが大正3年に国庫補助金を受け、本格的に事業に取り組めるようになる。こうして、大正5年第1号埋立地完成。大正6年には末広町と命名された。末広町ができた大正5年には末広橋はできていた!

大正12年

ムム・・・微妙なところで昌栄橋が見えない!

工事がすすむ1号埋立地の北側が、国産振興大博覧会会場となる。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする