花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

四日市湊物語⑤浜往還一本松

2021年08月10日 | レモン色の町

まず、椙山 満先生に、一礼!

幕政時代四日市湊燈台付近の景。四日市市中部 多気直三氏(明治28~昭和41)が、昭和15年頃、吉田勝太郎市長に寄贈せしもので、2代目の湊と浜往還一本松が彩色で描かれている。白砂の浜辺に繋がれた舟に乗り込む旅人、荷物を担いで舟に向かう速足の客たちの頭上に大きく茂る浜往還一本松と木造の大型の燈明台が、幕政末期の湊の潮風の臭いを感じさせる。

享保年代(1716~1735)に地図には勧進橋とあるが、明和5年(1768)の絵図には思案橋と記されているところから、この33年間に橋の名は改名されている。この思案橋の急速な縮小の歴史からみても初代の湊から二代目の湊に移り変わる町の変化の有様が伺われる。

読みにくいが“勧進橋”とある

この二代目四日市湊には浜往還一本松という雄大な老松がそびえていた。

第二期の湊に松の木が描かれている

昭和5年の市史によれば、浜往還一本松は当時蔵町にあった郵便局の東、開栄橋に西詰南の位置にあった。当時は旧陣屋(第一小学校)玄関前にあった駒繋ぎの松(慶長5年6月20日徳川家康当初通過宿泊の際、その乗馬を繋いだという名松で、明治9年12月伊勢農民暴動の際、旧陣屋建物と共に焼失)と、新丁不動寺の龍灯松よりも尚遥かに雄大な老松であって、漁船商船入港の目標たるのみならず、夏季乗降船客及び牛馬の納涼樹として非常に貴重せられ、官憲の保護亦すこぶる厳重だったが、安永元年(1771)大地震以来、しばしば高潮のため海水の浸潤をうけ遂に安政4年(1857)枯死するに至った。その後この位置に変わりの松が植え付けられ、これまた官憲の保護厳重であったが、開栄橋架設の際惜しくも取り除かれたのである、と記されている。

明治40年頃の開栄橋と2代目四日市湊のあと。浜往還一本松の代わりに柳(松?)と半鐘が立っている。

“四日市の100年”より 納屋運河の開栄橋(明治36年)橋を渡った左手には四日市郵便局があり、半鐘の脇には浜往還の松(柳?)が見える。橋のたもとの右手は四日市倉庫(株)、その奥の洋館は四日市銀行と、倉庫や事務所が立ち並んでいた。

近年の開栄橋。郵便局のあとの建物も、現在は壊された。

建物の南に埋まっていた“郵政?”の印。今は無くなっていると聞きましたが?

追記:8月16日、確認に出かけた。間違いなく境界石は現存していた。とすると、数年前に撮ったこの境界石は、何だったのか???“郵政”の字が見える。しかし角地ではなさそうでアリマス。

 

 

コメント (2)
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