花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

四日市湊物語 ⑥七里の渡しとの争議

2021年08月15日 | レモン色の町

蔵町にあった浜往還一本松の湊は、不動寺に次ぐ二代目の四日市湊である。この港ができる以前(1596年)から、回船という渡海業が営まれていた。四日市の回船は、株主によって組織されていて、奉行所の許可監督のもと営業されていた。そして四日市の回船は、度々他の回船業者と争いを起こしている。

寛保2年(1742年)桑名宿から道中奉行所に苦情が出る。四日市回船の尾張~四日市便(十里の渡し)の影響で、尾張~桑名間の七里の渡し利用が激減したという事だった。憤慨した四日市回船側は受けて立つ。

  • 家康渡海の由緒以来、四日市湊は地子高(税金)免除になっている。
  • 文禄、慶長の役の際には伊勢国13が浦の水主割振頭であった。
  • 万治元年、天和2年、正徳元年に制定された浜御高札には、四日市〜熱田間の船賃が記載されていて公認である。

ことを挙げ、江戸の評定所で争った。結果、この時は従来通りの通船が認められたが、その後も桑名は度々訴えを起こした。こうして約20年間に及ぶ四日市、桑名の回船争議は、事前予約で決着した。すなわち、諸大名や御用旅人で熱田と四日市間を直渡海するものは上り下りともその旨先触れを出すこと。先触れのない一般の旅人については旅人の随意とするものであった。

四日市は、良港に恵まれていたただけでなく、回船業者も威勢が良かったようだ。

明治になってからの、私鉄関西鉄道の国営鉄道との争いを思い出すが、おだやかな伊勢人かと思いきや、結構気性は強かったようだ。

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