花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

祭りの練りは、架線の下をくぐったか?

2018年05月08日 | レモン色の町

前田憲司氏の登場です。超多忙の中、時間を割いてお答えいただきました。大変ご無理を申しました。さて、架線の下を練りがくぐったか?のご返事は?

この件については私も疑問に思っていて、当時を知る方に聞いておけば良かったと悔やんでいる内容です。


昭和31年9月以後の直結線(諏訪駅廃止)になって南浜田に踏切ができました。その踏切には、手動巻き上げ式の遮断機が設置され、配置されていた踏切番の職員が遮断機を上下させて手旗で電車に合図を送っていた光景を覚えています。
 その後、近鉄四日市駅と市街の高架によって廃止されました。ちなみに新正の一号線との交差は当初から高架化されていて、南浜田の踏切から南にかけて、軌道が土手になって徐々に上がり、松本街道の交差手前からコンクリート製の橋脚になっていました。
 戦後も、大入道や明神丸が南浜田まで来ていました。 ただ、明神丸が練り込んできた記憶は私にもありますが(昭和41年だったと思います),大入道は記憶にありません。踏切ができたあとは、明神丸はくぐってこれたが大入道はくぐれなかったので踏切の手前で演技をして帰って行ったと聞きました。その他の?がどうだったのかは、聞いていませんがおそらく同様の対応だったと推測します。

昭和20年代後半 踏切から北を望むスワマヱ通り(四日市今昔写真帖より)
 さて、本題の江田の踏切です。
 まずその歴史を再確認してみました。(ウィキペディアより)
  1915年(大正4年)12月25日 三重鉄道の四日市・諏訪間が開業。
  1916年(大正5年)3月3日 四日市鉄道の四日市・諏訪間が開業。同区間は単線並列となる。
  1927年(昭和2年)11月29日 四日市鉄道が四日市・諏訪間を廃止。三重鉄道四日市
・諏訪間移設、四日市鉄道同区間乗り入れ。
  1928年(昭和3年)1月29日 三重鉄道が諏訪・四日市間を廃止し、伊勢電気鉄道に路盤譲渡。
  1929年(昭和4年)1月30日 伊勢電気鉄道の四日市・桑名間単線開業に伴い、善光寺の急カーブ成立。
  1938年(昭和13年)4月13日 四日市・諏訪間を複線化。
6月26日 名古屋・桑名間を参宮急行電鉄の子会社、関西急行電鉄(関急電)の手によって開通。
  1956年(昭和31年)9月23日 近鉄名古屋線の四日市駅乗り入れ廃止に伴いカーブ解消。

昭和30年頃 三滝通りを横断する近鉄電車(四日市今昔写真帖より)
 ウィキペディアの記事であり裏付けは取っていませんが、信じることとして。
 これによると大正5年以後の様子を調べる必要があることがわかりますが大正時代の四日市祭に関する新聞記事等に架線問題が触れられているものを見た記憶がありません。三重鉄道・四日市鉄道は軽便鉄道だったので、架線があったのかどうか存じません。

架線が問題になるのは昭和4年以後になろうかと思います。(諏訪駅の位置も影響するかと思いますが、桑名/名古屋直通になったので完全に遮断されます)
 昭和以後の新聞記事については断片的にしか見ていませんので架線に関する記事があったかどうかは何とも言えませんが、見た範囲ではなかったように思います。
 ただ、乗降客であふれる様子や、往復割引券などを発売して大盛況だったという記事はありました。鉄道会社は四日市祭を地域の一大イベントとして取り上げ(三重県内はもちろん全国的にも名を馳せた祭でしたから)乗客サービスをして収益UPを狙っていたことがわかります。これは戦後も続いて少なくとも昭和27年までは鉄道会社が四日市祭のポスターを作ってPRしています。
 ここからは推測です。
江田の踏切が、南浜田のような巻き上げ式の遮断機が無かったことが前提として。地域の一大イベントとして、期間中はドル箱状態であった四日市祭に対し鉄道会社が非協力的であったとはまず考えられません。何らかの対応措置を行っていたと考えられます。一番考えられるのは、期間中の架線一時撤去です。これは、京都の祇園祭や秩父の夜祭、高岡御車山祭でも見られました。
 https://trafficnews.jp/post/60629(P1に秩父のこと・P2に高岡のこと)
 http://kyorakudenki.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-1864.html(祇園祭のこと)
四日市の場合、もし期間中の架線撤去がおこなわれたとした場合その間の鉄道運行はどうしていたかという疑問についても推測になりますが他の祭りの例から次の対応が考えられます。
 ・諏訪―四日市を不通として折り返し運転とし四日市の市街を徒歩で歩かせる
 ・踏切の部分のみの架線を外し、惰性運転で乗り越える(祇園祭の例)
 もちろん、架線があったままでの対応(もしかすると大山車以外はくぐれたかも知れません)も選択肢に入るとは思いますし、江田踏切に遮断機があったかどうかもポイントです。このことについては、鉄道マニアの方に尋ねるほうがいいかもしれませんね・・・・もう少し調べてみますがいずれにしても、鉄道会社が配慮しないわけがない状況であったことは事実で配慮しなくなったのは、直通線ができる31年以後ということになりそうです。

丁寧な解説をいただきました。ありがとうございました。


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