当店から沖ノ島へ抜ける 通称 嶋口屋世古道。明治44年の地図には
三重軌道予定線から諏訪新道へ伸びるような世古道
赤丸の地点(諏訪新道の何処か?)へ出る。
昭和2年の福田武夫氏の東海道往還にも 沖の島道 として描かれている
たいじゅさん提供
幻となったが 明治42年 三重軌道初期の敷設計画では、四日市鉄道とクロスして諏訪新道から四日市驛へ通す計画があった。(たいじゅさんご指摘)
その申請書には ①阿瀬知川北岸から諏訪新道までを専用線路 ②諏訪新道上を1670-2番まで里道を使用 ③1670-2番から東海道までを線路敷設 となっていて 三重軌道さんは諏訪新道上の1670-2番地にこだわっている。
②の里道使用によると いまだ人家がまばらな四間幅の道路は、電柱を道路外へ立てれば、敷設も可能であるとおっしゃってみえます。但し、世古道は四間もなかったと思われます。そこでたいじゅさんの目を気にしつつ 再び法務局へ出かけた。連日訪れる変な爺さんに、法務局の女性は、複数で対応していただいた。そして1670-2番が何処か分かった!
1670-2番 三重軌道が取得を断念した地点 これによりダイヤモンドクロスは回避され 二社の列車は並行して走ることになった が、なぜこの地点が選ばれたのか?あまりにも世古道を意識していないか?
この地点は何処になるのか?空襲後の世古道をたどってみると
いちょうやさん跡あたりになるのではないかと思われる。
結果的には実現していない訳ですからあくまで想像の域を出ませんが、やはり三重軌道は当初嶋口屋の世古道に沿うように軌道を敷こうと目論んでいた可能性が高いと推測されます。嶋口屋の世古道を取り込むことにより線路敷地の買収範囲がその分少なくて済むことにもなるし、1枚目の地図、赤線で書かれた三重軌道計画線路が旧東海道と接する付近のカーブ加減は良い感じに諏訪新道への軌道合流を容易にイメージさせます。が、見ての通り既に周辺は既に宅地化しており買収はほぼ不可能だったでしょう。
4、5枚目の土地情報図面はおそらく大正年間初期、まだ諏訪付近での四日市鉄道との軌道交叉問題が解消していない大正2~4年にかけてのものという公算が高くなってきましたね。
たいじゅさま
いつの時期に書き足されたのかは知りませんが、結構以前から計画があったんでしょうね。こうやって地図を見てるだけでも面白いなあ。