安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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こんなにおかしい!ニッポンの鉄道政策
私たちは根室線をなくしてはならないと考えます
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建国記念日に考える~ある高校卒業生の「手紙」

2015-02-11 21:17:40 | その他社会・時事
世間――あえて社会とは呼ばない。呼ぶ価値もない――では、人質事件を契機に異様な自粛ムードが形成されつつある。安倍首相の唱える「テロとの戦い」に少しでも異を唱えるものはすべて悪でありテロリストと同じだという、猛烈なレッテル貼りの嵐が吹き荒れている。イラク戦争当時、ブッシュ米大統領が「テロリストを選ぶか、我々を選ぶか」とテレビ演説で絶叫していたことを思い出す。世の中には「敵」と「味方」しかおらず、味方でないものは全員敵だ――そんな子どもじみた安倍首相を見ていると、本気でこの国の先行きが不安でたまらなくなる。安倍政権の下で刻一刻とファシズムに向かいつつある日本。戦争はもうすぐそこまで来ている気がする。

今日は建国記念の日。古代日本の神話の上では、紀元前660年の旧暦元旦(新暦では今日、2月11日)に初代天皇である神武天皇が即位したとされる。戦前は「紀元節」と呼ばれ、天皇を賛美する日だった。そんな日だからこそ、ご紹介したい「手紙」がある。2014年3月にある西日本の高校の卒業生が書いたものだ。みんなと同じだと安心する、人と違うことをするのは怖い。そんな同調圧力の強い日本で、このような行動を貫くことがいかに大変か、心の葛藤も含めてよくわかる文章である。当ブログを読んだ皆さんも是非一緒に考えてほしい。「考えるのが面倒だから、周りのみんなと一緒でいい」と思うことが、ときにどんな怖ろしい結果を生むかということを――

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 こんにちは、私は今年A高を巣立つ三年生です。まず最初にことわっておきますが、私は、親に言われて君が代の不起立を決めたわけではありません。

 私は卒業式での君が代の際、不起立を貫こうと中学生の時から決意しました。そんな私ですが、実は中学生の卒業式の直前まで私は不起立をするかしないか、とても悩んでいました。なぜなら私は、何処にでもいる、自分だけ目立つのが怖い人間だからです。

 いえ、周りにとっての普通以上に私は怖いと感じていると思います。それはイジメを受けた経験があるからです。人と違うことをすればどうなるかわかっていました。人と違うこと、多数の常識や雰囲気から外れたことをすれば、イジメられる、馬鹿にされる、責められる。私がどれほどの思いを持っていたとしても、どんなに正直に話しても、それを無視する程の数によって踏みにじられる。そんな経験を昔味わったことがあるからです。

 こんなことをしたんだ、されたんだと正直に話しても周りが違う嘘つき謝れと何度も何度も大声で私を責めました。私は何度も言い返しましたが、大人ですら、そのような状況に置かれれば疲弊するのに、こどもの私では耐え切れず何度も自分の意思をねじまげられました。しかし、ねじまげられる度に、私はとても悔しくて、歯を食いしばり、涙を流しました。それから私は、自分の踏みにじられたくない思いを、自分で説明しきれるまで、周りに対することができるようになるまで、表に出すまいと決めました。

 そんな決意を固めた私が何故中学生の卒業式で不起立を行い、意思を表明したいと思ったのか。それは、理路整然と説明しきれるようになったのではなく、数に対抗する勇気が生まれたわけでもなく、とある先生の言葉のおかげでした。

 本当に卒業式の数日前までは、私が自分の考えを、思いを貫く為に不越立を行ったら、私は周りの異物を見る目に耐えられないかもしれない。だけど、思いを曲げるのだって辛い。どうすればいいのだろう、とずっと悩んでいました。だけどそんな卒業式まで一日、三日のある日、私の先生は卒業式の予行のとき、みんなの前で言いました。

 「立つ立たないは個人の自由。だからもし、立たなかった人が居たとしてもそれを責めてはいけない」と。 それを聞いて私は、立たない決意を固めたのです。

 先生が、一人一人の思いを尊重したことを言ってくれた、立つ立たないどちらが悪いとかではなく、少数を切り捨てるのでもなく、多数を抑えるのでもなく、少数多数関係なく、私たちみんなを尊重してくれたその言葉は私のターニングポイントになりました。

 今の日本の民主主義とは多数決であると思います。そして、少数は何時だって多数に「お前らは間違っている」と言われつづけていると感じます。だけどその先生は、多数少数ではなく、一人一人の思いを考えてくれた、私たち生徒を思ってくれていたことを私は忘れられません。

 それでもやっぱり私は、多数が怖いので、高校では卒業式まで、君が代が流れるその時まで、自分の考えは隠しておくことに決めました。それと、先生には話さないだろうとも思いました。なぜなら、誰が多数派で誰が少数派かわからなかったから。もしかしたら先生はみんな多数派かもしれない。そう思うとなかなか打ち明けられませんでした。

 けれどある時、A高の先生の中で昨年お世話になった先生が不起立で処分を受けたと聞き、ようやく自分の不起立に対しての思いを相談できる人が居ることを知り、とても安心できました。

 不起立を取り締まる条例は私のような少数の生徒にとって安心できる先生を奪われることなのです。このままどんどんそういう先生が居なくなってしまったら、私のような少数派を理解してくれる人は居なくなるでしょう。もし、理解してくれても、卒業式のときに起立しているところを見てしまうと、結局身体を張ってくれるほど私達のことを思ってくれるわけではないのだと思ってしまいます。

 そうなれば、心の中で先生がどう思っていても、私にとっては信じていいのかわからない存在になってしまいます。そうなれば何時しか、生徒に強制はされなくとも、実質自粛ムードになり、わざわざ座る人は居なくなるでしょう。それがもし、当たり前になったら。最後にどうなるかはわかりません。ですがこのまま、誰も声を上げなくなったら、今まであったことが風化してしまうのではないでしょうか。

 私達は最近失敗をしませんでしたか? 予測では絶対大丈夫。それを信じて、大丈夫じゃない可能性を考えることを放棄し、大丈夫じゃない可能性を考えた少数を事故が起こるまで軽く扱ってきませんでしたか? 何か起こってから、失敗したと言っても後の祭りです。取り返しはつかないのです。

 例えば、私達は三年前より先に反原発と声をあげるべきでした。だけど、人ごとだからとまともに向き含わなかったのだと思います。だからあんな事故が起きてしまったのではないでしょうか。

 少数を切り捨てることは簡単です。でも、お願いします。少数の声を聞いてください。

 有るか無いかもわからないもしもを考えたとき、起こってしまってからでは取り返しがつかないのです。だから私は、今、声をあげます。不起立で意見を表明したいと思います。

卒業生 B
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当ブログには、この卒業生の気持ちが痛いほどよくわかる。『私がどれほどの思いを持っていたとしても、どんなに正直に話しても、それを無視する程の数によって踏みにじられる』『こんなことをしたんだ、されたんだと正直に話しても周りが違う嘘つき謝れと何度も何度も大声で私を責めました。私は何度も言い返しましたが、大人ですら、そのような状況に置かれれば疲弊するのに、こどもの私では耐え切れず何度も自分の意思をねじまげられました。しかし、ねじまげられる度に、私はとても悔しくて、歯を食いしばり、涙を流しました。それから私は、自分の踏みにじられたくない思いを、自分で説明しきれるまで、周りに対することができるようになるまで、表に出すまいと決めました』…それは、当ブログ管理人がまさに青春時代の一時期に経験したことと同じだからである。

個性の尊重とはお題目ばかり。個を主張する者はいつも同調圧力にさらされ、従わない者は最後には排除され、疎外され、迫害される。いじめられっ子、在日外国人、LGBTなどの性的マイノリティ、そして福島からの避難者――「人と違う」ことをする者には、いつも集団という多数派から「私刑、リンチ」の刃が振り下ろされる。21世紀の今になっても。

福島で「大丈夫じゃない可能性を考えた少数」がいること、そしてその人たちが排除されてきた事実は、政府、財界、原子力ムラ、そしてメディアによって黙殺され、徹底的に隠されてきた。そうした隠蔽構造を射貫く目を、被災地から遠い西日本にいながら彼女が持つことができたのは、彼女自身が「排除される側」にいたからだ。

学校という閉鎖的空間の中で排除された経験を持つ当ブログ管理人は、今も彼女と同じように『多数が怖い』。このブログも、もともと多数派と闘うために生まれた。多数派から投げつけられる悪罵には、子ども時代よりは慣れたつもりだが、精神的に疲弊することは今もある。多数派にしか属したことのない人間(自民党など)には、この気持ちは絶対に、永遠にわからないだろう。

自分と同じ空の下にこんな思いで生きている人間がいるということすら、たぶん自民党にはわからないだろうし、今さらお前らごときにわかってもらいたいとも思わない。ただひとつ言えるのは、踏みにじられている、たったひとりの気持ちがわからない為政者は、最後はそのために滅亡することになるだろうということだ。福島、沖縄、人と同じになりたくても、なることもできないマイノリティたち…「調子に乗ってる多数派よ、お前らを恨んでいる者は大勢いる」とだけは言っておく。

将来ある若者が、その将来を毀損することになるかもしれない中で一生懸命闘っている。彼女の手紙を読んで、久しぶりに私は胸が熱くなった。踏みにじられているひとりがいるなら、そのひとりのために闘うのが当ブログの使命だ。最近は何かと「対案も出さず、批判だけする野党は情けない」などと訳知り顔でのたまう「自称有識者」も多いが、踏みにじられ、希望を失って漂流している者にとって対案などどうでもいいことだ。そんなことは官僚が考えればいいことであり、当ブログの知ったことではない。これからも当ブログは、踏みにじられているひとりのために闘い続ける。

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