安全問題研究会~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

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こんなにおかしい!ニッポンの鉄道政策
私たちは根室線をなくしてはならないと考えます
国は今こそ貨物列車迂回対策を!

小説執筆って難しい

2014-04-10 22:02:36 | 日記
今年の新年目標で、ネット小説の執筆に取り組みたいと宣言してから3ヶ月。今年ももう4分の1が過ぎたが、結論から言えば、執筆は完全に行き詰まった。このままでは、今まで書きためたものはすべてボツ稿としてお蔵入りさせざるを得ないと思っている。

公開? とんでもない。自分自身が読んでいて全く面白いと思えないものを、面白くもないのに公開する、というのは物書きとして自殺行為に近い。

途中まで執筆してみて、改めて、小説家には筆力以外の能力が必要なのだということを痛感した。小説家に必要で、ノンフィクション・ライターには全く不要な能力…それは「物語構成力」「キャラ構成力」など、無から有を生み出す創造的能力(芸術力、といってもいい)。これがないと、小説家としては全く話にならない。

当ブログ管理人は、過去、人生のほとんどをノンフィクションだけで勝負してきた。多種多様な集会・デモの報告、社会評論・コラム、ルポルタージュ…ノンフィクションと呼ばれるものは、すべて「現実に起きていること」を題材としている。テーマは「すでにそこにある」のだから構想力などまるで必要がなく、目の前で起きている出来事を評価し、料理する能力のみが問われる。だからこそ、ノンフィクションの世界は私のように想像力が貧困な人間でもやっていけるのである(誤解のないように付け加えておくと、ノンフィクション・ライターに想像力が「全く不要」というわけではない。例えば、取材が行き届かなかった部分を想像で埋めることはこの世界にもあるし、限られた時間・リソースでの取材結果を基に、例えば震災のルポを書くためには、被災者の暮らしの「断片」からその全体像を想像し、寄り添うような作業は必要だからである。小説家に求められる想像力と、ノンフィクション・ライターに求められる想像力は全く別物である、という言い方をしたほうが正確だろう)。現実に起きている、いま目の前に起きていることがテーマのノンフィクションは、事実関係をある程度脚色することはあっても、「盛る」ことは基本的に御法度の世界だから、小説家のような逞しい想像力は、ノンフィクションの世界ではむしろ障害にすらなることがある。

このように考えると、小説家とノンフィクション・ライターは、ただ単に同じ「物書き」「文筆業」のカテゴリーに入る、という以外の共通点は何もないような気がしてきた。ノンフィクション・ライターをしながら同時に小説家でもあろうとするのは、そのこと自体が自己矛盾のような気がしてきたのである。

だが、日本の文壇には、実際に起きた出来事を基に、社会問題を「実録小説」の形で世に問う「小説家」が少ないながらも存在する。昨年亡くなった山崎豊子さんや、存命中の方では高杉良さんのような方である。最近では「原発ホワイトアウト」を出版した若杉冽さん(正体は某省の覆面官僚といわれる)も、実績が少ないだけで基本的にはこのカテゴリーに入るだろう。実は、私が目指したかったのはこの分野である。

ノンフィクションの文体では限界があって描けなくても小説としてなら描ける、という出来事は世の中に多く存在する。具体的に言うと、狭い関係者の間では事実として共有されていても、世間一般では「証拠や裏付けがない」ために流言の類とされるようなネタを料理するのに、実録小説は都合がよいのである。どこまでが事実でどこまでが創作なのかを曖昧にしたまま書き続けることが、ノンフィクションの世界では許されないが、小説ではそれが許されているからである。若杉さんが「原発ホワイトアウト」を社会評論でもコラムでもルポルタージュでもなく小説という形式にしたのは、まさにこうした「グレーゾーン」的ネタを適切に料理するのに、小説の形態が最も適していたからだろう。原発のような情報隠蔽が激しい分野で社会問題を告発するには、こうした手法が必要なことがあり、それを身につけるため、小説という新しい分野に挑戦してみたいというのが執筆の動機だった。

だが、小説としては最初の作品だから勢いでとにかく書いてみよう、と書き連ねた原稿群は、残念ながら当初の目的からは逸脱した(というより正反対に近い)、当ブログとしては公開不能なシロモノになりつつある。どう見ても、凡庸な展開かつ「初めにキャラありき」のもので、このまま書き進んだ場合、ライトノベルとしては破綻なく完結させられたとしても、ただそれだけの作品で終わってしまうだろう。構想段階では差別やいじめ、女性の社会進出といった、現代日本社会が抱える構造的問題をテーマとした社会派小説にしたかったが、このままでは本題に入れないまま、なし崩し的にラノベに方向転換した挙げ句に沈没という悲劇的結末になってしまう。

その上、ラノベとして読むにはファンタジー性が不足し、ケータイ小説として読むにはケータイ小説的リアリティが不足し、実録小説として読むには社会的テーマ性が不足していて、結局はどれとしても読めない。一度すべてご破算にして、ラノベ、ケータイ小説、実録小説のどの路線で行くのかから再構築せざるを得ないところまで追い込まれてしまった。

日本では、ライトノベルやケータイ小説の市場はすでに飽和状態で、ポジションを確立した作家群に伍して後発組が割り込むためにはよほどの努力がいる。人生も折り返し点を過ぎたこの年齢になって、「その他大勢」に埋没するだけの作品を量産することに意味があるとも思えない。どうせやるなら、他の作家が誰もやらなかったことをやるしかないが、どうも難しそうな気配だ。

当ブログ管理人は、ノンフィクションの世界では、「地域と労働運動」誌読者の中に私の原稿のファンが少なからずいる、との話を編集長からは聞いているし(お世辞の可能性もあるが)、「レイバーネット日本」からは、もっとコラムを書いてくれ、と拝み倒されたこともある。「週刊金曜日」等で活躍しているフリージャーナリストの男性からは、(出版不況だから売れないよ、と前置きしつつ)「あなたの文章力なら商業出版も可能」と言われたこともあるし、週刊「AERA」誌の契約記者の女性からは「あなたならうちの媒体でも今すぐやれるし、率直に言えば、文章力より合った媒体を見つけられるかどうかだと思います」と言われたこともある。自分で言うのもなんだが、ノンフィクションの分野ではそれなりにやれると思っている。小説などあらぬ方向に色目を使うより、ノンフィクション・ライターとしていま以上に実力を磨くことの方がずっと大事なのではないかという気がしてきた。

そういうわけで、まだ3ヶ月しか経っていないが、今年の新年目標「ネット小説の執筆」は撤回する。自分には小説家に必要な「物語構成力」が決定的に欠けていることが書いてみてわかったからである。私が小説家になるには、物語やストーリーを考える「原作者」が別に必要だろう。今しばらくはノンフィクションの世界で精進という「自分としての原点」に帰ることにする。

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