29Lib 分館

図書館・情報学関連の雑記、読書ノート、音楽ノート、日常生活の愚痴など。

タブラ導入でサイケデリック感増量、カリンバ導入でミニマル感増量

2015-07-08 08:04:08 | 音盤ノート
Steve Tibbetts "Yr" Frammis, 1980.

  スティーヴ・ティベッツの二作目。後にECMから1988年にジャケットを変更して再発されている。ECMに移籍するきっかけとなった作品である。録音には打楽器で盟友Marc Andersonが参加しているほか、ベース一人とボンゴ一人、タブラ二人(アルバムの前半と後半で入れ替わる)が加わっている。

  前作と比べると、バンド演奏になったために密室的な雰囲気は無くなっている。シンセサイザーの使用が大幅に減って、テープ処理も多様されているが前作ほど派手ではない。一方、タブラが加わってよりサイケデリック感が増した。また、後のアルバムでアクセント的に使われるカリンバによる演奏もこれが初出だろう。そのミニマル音楽的な響きは瞑想的で心地よい。

  本作においてその後のスタイルが確立された。ただし、エレクトリックギターの演奏は後年聴けるほど鋭角的ではなく、あまり面白くない。一方、アコギ演奏は時折英国トラッド風に響いたりして興味深い。全体としてマイナー作品ながら「実験的」で終わらない親しみやすさもあって、そこが魅力である。
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戦争の要因についての議論を三つに整理した書籍

2015-07-06 17:01:04 | 読書ノート
ケネス・ウォルツ『人間・国家・戦争: 国際政治の3つのイメージ』渡邉昭夫, 岡垣知子訳, 勁草書房, 2013.

  国際政治学の古典。具体的にはなぜ戦争が起きるのかについての議論を整理する内容で、著者の博士論文を基にした書籍である。原書はMan, the State and War: A Theoretical Analysis (Columbia University Press, 1959)で、この分野では著名な本だったらしいけれども、邦訳はこの勁草書房のこの版が初めてである。

  著者によれば、戦争の要因についての議論には三つあるという。一つは為政者の人間性で、その征服欲やら悪意やらで戦争が起きるというもの。もう一つは国の体制で、資本主義体制だから、あるいはファシズム国家だからこそ戦争が起きるというもの。三つめは、国家間の関係が超越的裁定者のいない無政府状態だからこそ起きるというもの。先の二つの議論を退けてはいないものの、三つめがもっとも重要であると著者が考えているのは明らかである。「はじめに他者ありき」。というわけで、他国の状態を省みない平和主義の無効さ、ゲーム理論を使った分析の導入、勢力均衡の妥当性などが論じられている。

  仮説と今後の分野の方向性を提示するというのが本書の意義である。論証については、議論の材料がカントやルソーだったりして、選択がアドホックな印象である。この点で結論への同意を強力に迫ってくるような力強さはない。国際関係および戦争を考えるきっかけを提供するものとして読むものだろう。
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プログレ要素のある宅録サイケデリック・インスト・フォーク

2015-07-03 18:17:42 | 音盤ノート
Steve Tibbetts "Steve Tibbetts", 1977.

  米国人宅録ギタリスト、スティーヴ・ティベッツのデビュー作。このブログでは以前、彼の7作目にあたる"The Fall of Us All"に言及したことがある。本作は自主製作盤で、オリジナルLPの流通量はかなり希少。1995年になってCD版がCuneiform Recordsから発行され、ようやくマニア以外も耳にすることができるようになった。

  ECMでの彼の諸作品と比べると、このデビュー作はかなり趣向が異なる。清廉なアコギの音はその後を感じさせるものの、全体的にシンセサイザーが激しく唸っており、これは次作以降では見られない要素である。テープ操作は後の作品でも地味に使われているが、本作では速度変更などかなり目立つ処理のされ方をしている。一方、後の引出しの一つとなっている、激しく打ち鳴らされるタブラと歪んだエレクトリックギターは登場しない(正確に言うと、爆走エレキギターは最後の曲のみに登場するのだがこれがジミヘン丸出しで全然彼らしくない)。全体としてアコギとシンセ音とテープ処理による実験的瞑想音楽という印象である。

  まあジャンル不明の変な作品だ。宅録オタクの妄想爆発といった趣である。たぶん本人は1960年代後半のロックが好きで、当時のインドブームへの憧れから仏教に帰依してチベットを名乗ってみたのだろうけれど、1954年生まれて世代的にヒッピーになるには遅すぎたという感じだろうか。こうした10年遅れの時代錯誤な好みが、まったく時代とは無縁の孤高の音楽を生み出した面白い例だろう。
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中身もページも薄くて、明らかに説明不足

2015-07-01 08:20:12 | 読書ノート
ジェームズ・J.ヘックマン『幼児教育の経済学』古草秀子訳, 東洋経済新報社, 2015.

  けっこう期待して読んだのだが、本の構成が駄目である。まず最初の40頁強で著者が持論を展開し、次に10組の専門家が著者の見解に5頁ずつ賛否を述べる。最後にまた著者が出てきて8頁を使って再反論する。邦訳では経済学者の大竹文雄による解説が16頁付されていて、四六判で正味127頁しかない。短すぎる。

  短いのが悪いのではなく、説明不足となっているのが大きな問題である。著者によれば貧困家庭向けの二つの幼児教育プログラムが成果を上げたというのだが、地域と訪問頻度、実施期間以外の情報が欠けている。いったいどういう教育内容だったのかちっともわからない。また、似たような貧困家庭向けの幼児教育プログラムで、米国でより広範囲に行われているものに「ヘッドスタート」というのがある。これがうまくいっていないという評価があるのだが、こうした見方に対して著者は批判している。だが、しかし分量不足のため十分納得させるほどの反論となっていない。他人にコメントをもらってくる前にこれらについてもっと記述してよ、と言いたくなる。ちなみに、中盤の10組の専門家のコメントを読めば、彼らも僕と同じように感じていることがわかるだろう。

  これはノーベル賞学者の権威を利用した政治的パンフレットなのだろうか。著者が示した結論がでたらめだとは思わないだけに、ちょっと残念である。ちなみに原書は2013年のGiving Kids a Fair Chanceである。
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